SNSのMemeより。
My attitude is a result of your actions.
私の態度は、あなたの行動の結果です。
So if you don't like my attitude,
もし私の態度が気に入らない場合は、
blame yourself.
自分を責めてください。
そもそも論、ツーツーカーカーと双方向に自然に話が流れやすければそうなるだろうし、
そうならないということはご縁があまりないってこと、ありますよね。
材料としか見ていないような無機質さもあります。お互いに。
ちゃんと言ってくれたらそうしたのに、じゃなくて。
自然にそうなるときにはそうなるだろうし。
働きかけが薄いところには薄い反応しか出力されないです。
逆に折に触れ、自然にそう成るように成ったのであれば縁談成立です。
やろうよ~、やってよ~
今度歌ってよ~、演奏しに来てよ~
と言われていたことをいざやろうとすると、特に断りもなく話自体をもみ消したり。
自然消滅が曲がり通るなんて。それってきっとご縁がないんです。
単純に、ご縁が、ない。あるいは、ご縁が、薄いのよね・・・。
誰が悪いとか、怒る怒らないとかではなく薄かった。
わざわざ強い気持ち出して「あれどうなりました?」とか、聞きにいくのは野暮な話。
お互いに目の前のより大事なものにフォーカスして関わっていくだけです。
よく分からない流行りの風邪が猛威を振るい始める前と後では、
3年間でのうちに話がすっかり変わるような価値観の違いがありました。
“違い”と言っていいまでに。断言できる学びになってしまった。。。
ある意味答えが分かったことにより逆算して考えられるようになった、という。
生まれてから今までに薄々感じていた大なり小なりの違和感の原因がほぼ謎が解けて。
答えを持つからこその、なんだろう、絶対的な軸みたいなものが出来ました。
子供の頃から学校や社会に教えられ、
暗黙の了解で疑うことなくそういうものだろうと思っていたことが、
実はそのほとんどが誰かの都合の良いように用意されたものだったと分かり、
なるほどなぁと逆さにモノゴトを解決することの連続です。
大多数がそうだと思ってやっていることだし、
特に問題にせず考えもせず信じていたものがバラバラ~と全てゲシュタルト崩壊し、
新しいルールによって急激にもう一度全体の形を再構築していく。。。
その様子を次々に体感し、40代半ばにして、
いろんなことについて丸く収まる気づきの中に居ます。
非常にゆるぎないモノで、恐いくらい。
このあとも伏線回収が続くのかと思うと楽しみなような、
なんとなく居心地が悪いような、対応に慣れない感がしばらく続きそうな。
根拠もなく信じるより他無かったモノゴトの大半は、
誰かに用意された価値観の刷り込みでしかなく、
人間は昔も今も重度のバグやエラーを繰り返しながら
アメーバのようにあっちで増えではこっちで滅んで廃れたり。
ほんの一握りの賢い人によって生み出された便利なシステムやテクノロジーは、
その生み出した人よりおバカなユーザーによって改悪されて、雑に扱われていたり。
便利になったように見えて、それを使いこなす知恵がないから本当に、
相も変わらず業が深いままです。
こういう時代に突入して、様子をうかがった2年間。
最初の1年は先行きが分からな過ぎてあまり遊びにも行かず様子を見ながら。
決まっている行事を水面下でこなしていました。
2年目からは『もうこりゃずっと繰り返しやなぁ。』、埒が明かない。
死ぬまでこのままちゃうか?と思い、
個人的な心の上では全く以って元の状態に戻しました。
社会性でもって合わせることはあるけれど、生きやすいように、
攻撃されないようにうまく立ち回っているだけです。
昔は飽和状態であったこともそうではなくなりました。
なぜかしら同じような時期に同じようなことを始めた人が多くて。
こんなご時世が続いて、世の中のせいで閑散としているのをいいことに
また音楽系の遊びに通い始めて。
自分以外にもボーカルやフロント楽器の方が溢れていた集まりで、
あの頃の面々に全然会わなくて。
2年目にはチラホラと。かつて覚えた曲を練習がてら披露しあった仲間が少し、活動再開。
完全にとはいかないけれど今だって徐々に復活する方が増えて。本当に喜ばしいことです。
今、自分が企てるLiveやイベントに参加してもらえるように
いろんな方に近況報告がてら連絡を取っています。
なかなか昔みたいに完全復活とはいかないものだなぁと、
いろんなご事情に簡単ではないものを感じます。
それでも、誤解が解けたという、ステキな流れもありました。
こんな時代になったほうがムダな情報や、雑多な人間関係が自然とそぎ落とされて、
かえって良かったなぁと思える有難いパターンに遭遇します。
出会いがしらから事故ったみたいに、
ずーーっと嫌われてるんちゃうかなぁと思う関係があって。
嫌われてるんなら別にいいやって私もそっけなくなっちゃって。
お相手はナチュラルにそうだっただけで、
私のほうでいろいろ落ち込んでしまって。
申し訳なかったーと思いました。
アフターコロナもずいぶん落ち着いてから、
ちょこ…ちょこ…っと、ある方と顔を合わせることがあり。
落ち着いて腹を割って話をしているとあのときに嫌われているのではなくて、
むしろすごく認めてくれていて。
思い返せば初対面から良さを口に出して教えてくれていた。。。
私もその方の個性を昔から素敵だなぁと思っていたからこそ落胆具合がそれなりにあって。
改めて振り返って、フタを開けてみると
非常に安定した関係性に変わっていることが分かりました。
最近のことを話しながら今までに、その方も私もお互い成長していて。
今を生きることについて「前に言ってたことと違うやん!」な~んて非難されても、
日々物事の新しい側面に気づいて、
いろんなものを吸収することで考え方も、やり方も、ポジションも変わります。
どんどん変わっていく私についてきてほしいけれど、
昔とちゃうやんと責められる。
だから一緒に居られなくなる。
成長するたびに足を引っ張られてしまうなら、共には居られませんね。
いろんなものを吸収していくのが、お互いの成長が、
月日が経つにつれ変化していくことが認められない人とは、
残念ながら離れたほうがいい。
あの人は昔アナタのこと酷いこと言っていたよ~とか、
そんな人と一緒に何かするなんて信じられない様子になられても、
その私のことを悪く言っていた時期、背景、全体的なムードと今とでは違うだろうし、
他の人と組んでみて作業してみて、実際には全然満たされなくて。
紆余曲折の末、月日が流れて、
やはりご縁があって一緒に共同作業をする…なんてこともある。
ひどいなぁという出来事があって避けていても、またどこかで再開して、
その頃にはすっかりまた打ち解けて。嫌がることをしなければいいのだから、
こじれそうになっても適宜修正しながら上手くやれたらそれは、
お互いが成長したから…ということになる。
全体を俯瞰して考えられない人や集まりからすると、
私の選択そのものに対して疑義申し立てられることもしょっちゅうです。
目先の損得勘定にとらわれすぎて、
やったこと、やってもらったことを単純計算でお金に換算する。
例え話、自分の働きを手取りの時給に換算したり。
やってもらった伴奏を単純に、『1曲=500円』とだけ計算したり。
それだけではないだろうに。
背景になっているものはなんだろうとか、同時に流れてくるのが日常です。
これは私が、私の所属する会社の代表みたいに動くことが自然に身について、
責任とか自覚を持ち始めてからは目先のことも全体も見るようになりました。
目の前の人がディテール(細部、目先の損得)にこだわっているときに、
全体がどうなっているのかを説明しながら話を逸らすことが増えました。
目先の人からは、チンプンカンプンでしょうがそういうものなのだから仕方がありません。
ディテールを話しているときに全体も見えているのか、
ディテールにディテールを重ねて
日々応酬しているだけで終わっていく存在からの申し立てなのか。
話が大きく違ってきます。だって、
ディテールにディテールやとほんまのゴールにたどり着けない(^-^;
ゴールがその人も想像できない状況で別のところへ向かっているのに、
一緒になって運命共同体になれるはずもなく
モノゴトの半分は良い面、半分は悪い面かもしれない。
音楽をしていても反目し合ってやり取りにストレスを抱えるかもしれない。
でも、本番は良いものが出来上がるかもしれない。
ケンカをするみたいに管楽器プレイヤーたちが
JAZZアドリブを吹いている音源とかいまだに出回っています。
どんなに分かり合えてやさしさで集まれた仲間でも、
本番でスッコーンと何かが抜け落ちて、
どこかで聞いたようなよそよそしい飾りみたいな、
刺激のないものになってしまったり。
モノを作るのはキレイごとではなく、
そもそも人が集まって良い事ばっかりに包まれるなんて話がうますぎる。
目先の人当たりの良さとか、誰にとって求められているサービスなのか、
成り行きが自然なのか、チャンスの神様の髪をもぎ取る勢いで、
無理して手繰り寄せたものなのか。
人の流れだって、キレイごとではないんです。
私の周りの状況が全体的に、私にとってどんなふうに流れたかによって、
態度や行いを変えていきます。
ディテール側で、私の目先にフォーカスして語ることも出来ます。
例えば、自分自身もお金を払って遊びに行く集まりで、
お店や集まりに来られる人と一緒になって、
にぎやかになるように盛り上げていくことがあります。
楽器の人がいない、誰かいないかなぁと話になれば、知り合いに声を掛けるだろうし。
同じ音楽を愛する人がいれば、その人を集まりに誘うでしょう。
歌える人がいないからと、当日はその集まりでの曲をほとんど歌えるので歌って。
これでは一体どういうのがLiveで、どういうのが遊びで。
つじつまが合わないと周りには言われるし。
私はただの材料なだけではなく、必要に応じて自分で調理したり、
力を振るう場所を選択することもできる。
私だって7~8年前とは違い成長している。でもそこは都合よく見てもらえない。
都合の良いときだけの関係がもう何年も続いているならば…
それよりは、うちでLiveをしたら?と、折に触れ声を掛けてくれたほうを優先します。
胸に手を当てて、全体を俯瞰して捉えることが出来るならすぐに分かるはずなんです。
こちらの態度やアウトプットされる反応は、
その方の行動や言動の結果出力されたものです。
もしこちらの選択や行い、態度が気に入らない場合は、
目の前の私を責めるのは筋違いなんだと気づかなければ。
自然な成り行きとしてそうならないということは、
ご縁があまりないってことなんです。
働きかけが薄いところには薄い反応しか返っていかないだろうし、
どうしても私に立ちまわってほしい、立ち回ってほしかった理想的な現実があるならば、
まず自分自身のこれまでの行いを責めるべき…などとは、考えないものなのだろうなぁ。
恋愛でもお仕事でも遊びでも、自然にそう成るように成ったのであれば縁談成立。
ならない場合は…何かが薄かったのでしょうね。
始まる前から、残念でした~チャンチャン♪って、
話は終わっていることについてはもう、
何をけしかけられてもなーんも考えるところはないなぁと
栄養士目線で言うと、
材料面からも調理師目線からも、
栄養バランスを見る側からもアウトーー!なことって、あります。
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