10月27日はわたしの直近の母校である『佐保短期大学』の学園祭でした。先日、同級生のみゆうちゃんに誘われて。しかしみゆうちゃんは午前中お仕事。会えなかったけれど。
電車&バスで学校に着いてしばらくしたら、主人が天理から合流し2人で遊びに行きました。
昔諦めた夢を叶えるべく、学び直しで通った2年間。あの頃と同じロッカー、学食の鹿野園、食物栄養で調理実習や製菓の授業で利用した教室。
学んで分かったことは、栄養学には興味と関心が尽きないこと。特に発酵の辺り。好きなように食べているようで健診の結果が致命的になりきらないのは、バランスよく食べているから...なんだと、良くも悪くも学んだことを活かせています。
とはいえもうそろそろ歳も歳だから倒れやんように気を付けないと。といいながら、フォーキングやエクササイズが三日坊主です。
そしてもう1つ、いろんな働き方があるが、同じ成果物を作り続けるお仕事は向いていないということ。例えば製菓や、給食作りにしても毎回同じとはいかなくて奥が深い。が、性格的によそ見ばかりして刺激を求めてしまう。
前の仕事でやっていた訪問介護サービスの範囲で、目の見えない方や障害のある方、1人暮らしのおじいちゃんおばあちゃんの代わりにスーパーに買い物へ行ってきて、お昼ご飯や晩御飯など食べたいものを作るのがちょうどよいです。
昔に載せて頂いたタカギの文章が、HPから見つかりました。失敗をどうのこうの思っていないところは変わらずだなぁ。歳を取ると失敗するのが怖くて挑戦するのが億劫になることもあるけれど、
私の場合は元々そんなに失うものがないのとあんまり持っていないのでそもそもダメージとかあるか?緊張とかも厳密にはあまりしないんですが、よく思われたいような自分像がないので何を根拠に?と自問自答して終了するからです。
理想と現実💦(今は)こじんまりとした学校や職場なら良いが、私自身が注意散漫で1つのところで責任持ってということが(今は)ムズカシイのだなと理解しました。
若い頃はとにかく実家を出ること、手っ取り早く日本を出ることしか考えておらず、興味のないことを頭に入れることが出来ないため受験というシステムに参加せず、好きなように過ごしていました。
日本を出ることは出来ても自分の思い描いたものからほど遠いことが分かり日本に戻ってまた留学などする気になれず。夢破れ個人のレンタルビデオ店で働きながら、人にも疲れてしまって。家でほぼ無料で借りた映画を次から次に観て...
これではいけないなと駅前留学的な英会話スクールに通い始め、そこで良くしてもうた4歳年上の働く福祉施設(就労支援B)にボランティアで行って。年に1回の旅行で人手が足りないからピーチ助けてと、あ、ピーチは当時の私のあだ名ですが、
結果的にそこで働くみんなと一瞬で打ち解けたり言葉をかわさないでもコミュニケーションが成立する能力があることが分かり、半年後には正式に職員にしてもらえました。それからは毎日みんなで簡単な部品の組み立てをして、平群のシイタケを育てて、
たまに隣の班のクッキー作りを手伝ってそれらをバザーやらで売って。実家に帰りたがらない私を4歳年上のお姉さんが八尾にあるマンションの1室に住まわせてくれて。本当にフラフラしながらも、成り行きに任せて生きていました。
自分の若い頃に比べたら、佐保でお勉強したみんなは目標を持って、しっかりしていたなぁと振り返っていました。踊りが好きで、でもどうやって自分らしく発表しようかと形に困っているのかも?とクラスメイトを私も歌って応援したこともありました。
グラウンドにキッチンカーが並んでいました。もしかして、食物栄養コースの卒業生がやっているのかしら?1回の秋にはヘリコプターが止まったことがありました。ホットドックを買おうとしたら沢山授業を受けた池内先生に会いました。
普通に池内先生と呼んだけど良かったのか分からないほどの立場におられるのでちょっと、恐る恐るでした😅仮設のステージではカラオケ大会用にPAがしっかり。主人曰く、「ドラムセットあるね。ケースがあるから。」と。バンドも演奏するんだね。。
と話していたら「タカギさん?」と、懐かしいけどお互いあの頃よりふっくら。ビジネスキャリアコース出身で私が2回生になるときには佐保の職員になられたみんなの「アニキ」に会いました。いつもFacebookでお互いの記事にいいね!していて。
アニキとか、兄さんって呼んでいたけれどひと回り?下手したらふた回り?年下かもしれません。急に「中島さん」とか「中島くん」とか呼びづらいなぁとまごまご(^-^;バンドはまだ続けているそうで、なるほど!ドラムがあったのはそういうことか!
そしたらこの前ヴァンダメリリーでのライヴに彼女さんと来てくれた芝口くんが「そうそう」と話に入ってきて。なんだか昔みんなが呼んでいたみたいに「し~ば~ぐ~ちぃ~~!」としばらくグラウンドを出たところで座って話していました。
そこへ、カメラを持ちながら箕山先生が✨去年の高槻ジャズストで坂田明奈さんを観に行ったときにバッタリ会場の外でお会いして。一緒にCDを買うことになって。2年間担任の先生でした。
在学中は、特に製菓専門の授業のときに自分の中の生まれ持っての”注意欠陥かつ多動な”特性ゆえに気を付けて!と指導が入ることが多々ありましたが、次の受験生向けにHPで使う写真を撮りに来たときは、
「タカギさんやって。」化学の実験中。しかも高い機材。「私が写っても面白くないから。」と先生のやる手順を代わることになったんですがHPを見ると年齢的にタカギが先生に見えてしまって気恥ずかしかったです。
普段キビシイ指導が入るけれど、少し問題のある子がいるときにはタカギのところまで状況とか雑感みたいなものを聞きにくることもあってドキッとすることもありましたが、頼りにはされていたのか?一方だけとかではなく、細やかなところのある先生でした。
箕山先生が離れていった先には中華ちまきのブース。島村先生が大きな鍋の前で佇んでいました。「いるのは分かっていたのよ。」と、声が聞こえていたみたいで大変お騒がせしました。ちまきは早々に完売!やはり。。。
みんなで仕込みをしてから、当日に蒸して、ものすごく手が込んでいるのでそこら辺に売っているポテトや唐揚げとは違うんです。2回生の松花堂弁当作りは別の日になって、私たちのときはコロナ真っ只中で学祭も中止だったし。開催出来て良かったなぁと思いました。
水原先生は、私服を着てマスクをしていたけれどお声掛けはしないまま。多分えーっとあんまりは覚えてくれていないだろうかなと💦バスの中で手編みのマフラーか何かをずっと編んでいたなぁと、思い出しました。
飯田先生はどこにいたんだろう。。。唯一の男性の先生だった。うわぁなんかキャラ的に申し訳ない💦⇦畑での作物作りとか、メッチャお世話になったのにスンマセン。
最後には原先生にも会いました。2回では産休に入られて、それっきりになっていたのと、体重の増加にプラスして金髪にハロウィン過ぎて🎃「全然分からなかった。」と言われ、そうだろうなぁ。と納得。
「ステージで歌っていく?」と言われましたが、もう学祭のときにやったのでww「そうや!歌ってたなぁ!」「そうそう、先生は2階の踊り場から応援してくれて!」「憶えてる!」と懐かしく思い出していました。
歳で言うと私の方がひと回り上だろうに、ラスボス的存在の島村先生に聞けないことを原先生に頼って相談しているうちに、すごくザックバランに、いち早く敬語を外して対応してくれたのでのちに大変助かりました。
Age Is an Attitude.(年齢は態度)で、Age Is a Concept.(年齢は概念)で。ただの態度や概念の一つで。英語を学習したり世界中の情報にアンテナを張っていると、日本で暮らしながら自分の年齢が邪魔なときがあります。
歳いったって分からんもんは分からんし、いたって真面目にその道の流儀を教えてもらうのに年上も年下も無かろう。例えば近所の内科や歯医者さんでも情報の刷新がされていないなぁとガッカリすることもあるし、
音楽関係でもどの業界でも、歳いってるだけで骨董品みたいな扱いをされてその実、後進から華麗にスルーされている人も多いです。新しいことを見聞きしても、どこか知っているような気がしてしまって、
歳をとって頭でっかちになっては厄介です。新しいトキメキとか、ヒラメキも無くなって。ただ慣習で動いているだけみたいになって。年を重ねたから人類全体が成熟するわけではなく大人に振舞えるのはひと握り。
私のようにいつまで経っても思春期のクソガキのままという事例もあります。昔の自分が好きそうな音楽は今も好きですし。娘の方が、大人に見える。佐保の学生さんの考え方もフレッシュで、とても影響されました。
自分が信じてきたことには常に異なる考えがあって、新たな知見が広がって興味深かったです。戦後の学校教育の影響か私も含め自分で考えることが苦手で、自分たちのときより幼いかもと思うことはあったけれど、
それでも年老いただけの自分みたいなのが頭デッカチになって若い感性に譲らなかったら、盛大に道を誤ってしまう事例が沢山ありました。途端にオジンオバン色になって詰んでしまう。そういうのはやめた方がいい。
今の日本と同じで、年寄りに任せすぎたらそっちばかりに優遇された政策が採用されていくし、全国各地の学校給食を見てもなんでやねん、こんな貧乏?って突っ込みどころ満載。子どもたちは少なくなっちゃって。
若くても頭デッカチもいるし、世間を知らないで小さなコミュニティにしか所属していないのにその中で負けず嫌いが発動したり、子供らしい全能感からか?若くないのは一括して「老害」と取り合わない人もいるし。
私も白黒ハッキリさせたがったから人のことは言えないけれど、経験を積んでいる年上のほうがモノゴトのグレーなところを柔軟に対応してクレヴァーな立ち回りをされる方が多い。
若い人たちに混じってなんら手加減なくキビキビと動くのは緊張感を伴い、社会人から来ていた10人ほどの中には今の自分と同い年のお姉さんも1人いましたが、年々体力も気持ちも衰えるのを感じ、
40ちょっとのときに挑戦しておいて良かったなぁと痛感します。でもちょっと立ち止まる。この数年でどれだけ自分が衰えたのか。もう1度ゼロから、やり直したくなりました。
たまにバグってのめってややこしいイマイチな性能の脳みそと、この体にタグ付けされている精神以外何も持たないでも、何度だってやり直せるんじゃないかな。面倒くさがったらあかんのなぁと反省。
ほんのちょっとのことなのに、ずいぶん昔のことみたいだ…
世界観が、何週かしてしまったみたいに変わってしまった。
懐かしい校舎のそこかしこに断片的な記憶があって。当時のまま蘇ってきました。
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