今までにも細々とココやらSNSで、
なんかなー…
違うんだよなぁ…
っていう疑問に、
自分なりに答えを出してきたけれど。
概ね意見が一致する内容のことを喋ってくれている動画を見つけました。
でもほんま、私が常日頃から思ってること、
周りの人と話しているコトと変わらない。
常日頃周りと噛み合わないのは私だけ、みたいになってるのに、ね。
Jazz Standardを愛しながらも、
それ以外を積極的に歌うことや、
誰のおかげで今があるのか。
誰のために、何のために歌うのか。
歳のせいか、目立つためにやっているとか、
チヤホヤされたいだけみたいな発表の場には興味を持てなくなってきて。
そういう趣旨のライブかなぁと算段がついている中で、
『自分の音楽を突き詰めたい…』とかも、
すっごい浅く感じるし、
一旦音楽止めて、違うお仕事を必死でする経験をしてみた方がいいかも…
と思ったりします。
あと、飽きっぽいからということについて。
飽きちゃうからジャズスタンダードをこねくり回して愛でて愛でて、
リハモナイズしましたーってことを生業にしている自称クリエイターさんが近くにいたんだけど、
飽きるからリハモナイズ、たまにはいいと思うけどそれを生業にしすぎるのはたしかに意識が外に向いていないなぁと思います。
で、このブログでも飽きっぽいと自分のことを書いているけれど、自分が飽きっぽくても求められれば同じ歌、歌いますよ。
求められているか、求められていないかの違いです。
”タカギカオリ most requested”みたいな趣旨のイベントが出来たら、
こちらが歌いたいよりも聴いてくれる人のために何度でも、何回でもやります。
そこを間違って捉えられては困るのだ。
『自分の音楽…』、『自分は…』、
とかもバランスの問題で。
なんかそれも全面に出すぎると結局は
ありあまる承認欲求が透けて見えるようで幼い。
幼さを拗らせて消化できなかったことと、
寂しさから教えておじさんになる人と、
分かる人にだけ分かればええねん化。
なんか、方向性がとっくのと~にオワコン。
コンセプトというか動画の最後の方で話してはる、
『立ち位置』が全くもって一緒でした。
今第一線で活躍してはる人も同じことで悩んで、
このままやっていっていいんやなぁと。
求めるものがなかなか出てこなくて。
それなら自分でやるわさと始めてみて。
そもそも論を取り違えたご意見をもらいます。
それは人それぞれでいいんだけど。
間違った論理で奏でられた音に傷つくこともあります。
そもそも論「誰かのコピー」のような始末なのにヒットして、
それを日本で「孫コピー」したのが受け入れられて。
オリジナリティーも、クリエイティブさも微塵もないものが賞賛されています。
もしかしたら落語のような古典芸能も、
芸術全般で起こっていることかもしれない。
観ていて面白いなぁと思うことは稀で、ほんの一握り。
少し前にJAZZ MUSICにまつわるロンドンの近況と日本の状況についてCarmenさんというボーカルさんとしっぽり話が出来ました。
いろいろ興味深い話はあったけれど、彼女曰く、
「エイミー・ワインハウスですら、オリジナルではない。」と言い切っていました。
50年代の大衆音楽の歌い方のスタイルを丁寧に焼き直したもの、コピーだと。私もそう思います。
Nothing Original..それが別に悪いとは言っていない。
あの時代の感じ、においを彷彿とさせる、若いのに、クラッシックなボーカルスタイル。
一緒に乗っかって音楽したり、盛り上がって聴いた層もいるだろう。
けれど私にとっても、新しいことはそんなになくて。模倣の最たるもの。エンタメ性はあるけれど生きている間は食いつかなかったです。
むしろ彼女の生き方とか、ゴシップ的なところのほうが興味深くて。
増えるタトゥー、ドラッグの問題。すっ飛ばす歌詞と仕事…
彼女はJAZZではなく、どちらかというとブルースシンガーだ。
歌の内容と同じくらい陰鬱なものがありました。
以前にも書いたがクリエイティビティがないと、
「以前にも似たようなものを見たことがあるから飽きちゃう。」
のだ。どれだけ真剣に努力してコピーしても、
オリジナルには勝てない廉価版となる。
私の人生だから、誰かのコピーと思われるのはイヤだな。
コピーと思われてもオリジナルを超えてやる気概が要る。
ひび割れて折れそうな心の骨に、
しっかりギプスしてもらいました。
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