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個性はどこから生まれるのか

― 声という楽器の終わらない旅 ―


■ はじめに


声という楽器は、いつだって「誰かの真似」から始まる。


憧れたシンガーの息づかい。

言葉の語尾の置き方。

独特のイントネーションやクセ。


気づけば、それら全部が身体に染み込み、自分の血肉になっている。


赤ちゃんが身近な大人の言葉を聞き覚え、そのまま真似して喋り始めるように、歌い手もまた、誰かの声を体に通しながら育っていく。


私の声も、私ひとりだけで作り上げたものではない。


これまで出会ってきた人たち。

耳を奪われた憧れの声。

面白がって真似したクセ。


そんな無数の欠片が混ざり合った果てに、今の私の響きがある。


◆ 声という楽器は「真似」から始まる


― 赤ちゃんが言葉を覚えるように ―


歌い手として第一歩を踏み出すとき、人はみんな誰かの模倣からスタートする。


息をどう吐き、どう抜いているか

言葉をどのスピードで滑らせているか

拍のどこに乗っかり、どこでタメを作るか

どんな声の引っ張り方(クセ)をしているか


「いいな」と思った誰かの技術やニュアンスを真似し、自分の身体に取り入れ、試行錯誤しながら応用していく。


「真似る」は「学ぶ」の語源でもある。


もちろん、最初はどこか「誰かのコピー」に聞こえることもある。


けれど、それは恥ずかしいことではない。


同じ身体は一つとして存在しない以上、完全なコピーなど本当は最初から不可能だからだ。


骨格も、呼吸も、声帯も、生きてきた環境も違う。


同じ歌を真似しているつもりでも、身体を通した瞬間に少しずつ変質し、自分だけの音へと育っていく。


誰かのコピーから始まったものが、身体の中で咀嚼(そしゃく)され、気づけば自分自身の肉体の一部になっていくのだ。


◆ 「誰かに似ている」から始まり、「誰にも似ていない」へ向かう


― 個性は、あとから立ち現れる ―


世の中には、生まれつき著名人にそっくりの声を持つ人もいれば、技術の巧拙を超えて、ひと声発しただけで「あ、あの人だ」と分かる唯一無二の声を持つ天才もいる。


けれど、そんな奇跡みたいな人は、ごく一握りだ。


だから私を含めたほとんどの人は、「誰かに似ている」ことから始まる。


「誰にも似ていない声」を最初から作ろうとして作れる人は、案外少ない。


むしろ「あの人みたいになりたい」と夢中で追いかけているうちに、その人にはなれなかった部分こそが、自分だけの個性になっていく。


歌だけではない。


絵も、文章も、料理も、きっと同じなのだと思う。 人はみんな、自分だけの表現を探しながら生きている。


「自分らしさ」とは、最初から宝箱のように自分の中へ埋まっているものではない。


真似をして、取り入れて、混ざり合い、自分という身体を通った結果として、あとから勝手に立ち現れてくるものなのだ。



◆ 私の声は「節操なく先人から影響を受けた声」


― 声フェチ、声オタクとしての本領 ―


私の場合、「この一人だけに心酔して真似した」という特定の師匠やカリスマは少ないかもしれない。


むしろ、節操がないくらい、ありとあらゆる先人や日常の音から影響を受けてきた。


歌い手やミュージシャンはもちろんのこと、


街で見かけた一般の人の発声のクセや喋り方まで、「面白い!」と思ったら片っ端から真似して自分の中に取り込んできたのだ。


アイドルの可憐な息づかい

アニメ声優の鋭いイントネーション

学校の先生の独特な口ぐせ

身近な人の愛すべき喋り方

演劇部時代に身体に叩き込んだ感覚


私は筋金入りの「声フェチ」であり、「声オタク」。

それを、隠す気もない。


私にとって「声」は、人間そのものだ。

性格も、育った土地も、身体の使い方も、その人が大切にしてきた価値観まで、声には不思議なくらい滲み出る。


だから私は、歌だけではなく、人の話し声にも惹かれてしまう。


それら無数の声の記憶が、私という身体の底に地層のように沈殿し、今の私の声を作っている。


◆ 「好き」と「苦手」の両方が、個性を育てる


― 偏食では、声も育たない ―


音楽は、難しく頭で考える前に、音から音へとダイレクトに心へ伝わるものだ。

人を好きになる感覚と、まったく変わらない。


「なんでその曲(その声)がそんなに好きなん?」と聞かれても、

「いや〜、なんでって言われても、なんか好きなんよね」としか言えなかったりする。


「このフレーズの引っ掛け方がたまらん」

「この絶妙な“間(ま)”の取り方が、ええやん」

最初はそれでいい。

非常に感覚的な話だ。


けれど、その「なんか好き」を自分の中で分解し、客観的に掘り下げていくと、そこには必ず「惹かれる理由(構造)」が存在する。


自分が何を“好き”で、何が“好かん(許せない)”のか。 その感性の羅針盤を偽らないことこそが、自分だけの個性の「核」になっていく。


「好き」は、自分だけの美意識を育ててくれる。


けれど、「好き」だけを抱えていると、どこかで表現は頭打ちになる。


毎日の食事と同じだ。


好きなものばかり食べていれば栄養は偏るし、最初は「苦い」「苦手だ」と思っていた野菜が、実は身体を整えてくれることもある。


歌もまったく同じ。


最初は「自分には合わない」「苦手だな」と思っていた曲やジャンルに逃げずに向き合っていると、


ある時ふっと、


「あれ? この味付け、めっちゃ美味しいやん。」


「工夫次第で、こんな表現になるんだ。」


と化ける瞬間がくる。


「好き」が幹を育てる。


「苦手」は枝葉を広げてくれる。


その両方があるからこそ、自分だけの一本の木として育っていくのだと思う。


◆ 自分らしさは「他者との関係」で見えてくる


― 内省だけでは、自分は見つからない


面白いことに、人は自分の個性を「作る」ことはできても、「知る」ことは一人ではできない。


「あなたらしいですね。」 と誰かに言われて初めて、


「これが私なんだ。」 と気付くことがある。


人間とは、自分のことが一番見えない生き物なのかもしれない。


自分一人で部屋に閉じこもってどれだけ内省しても、自分という存在を完成させることはできないのだ。


誰かに憧れ、誰かから盗み、誰かの前に立ち、誰かに声を映し返してもらう。


歴史や文化を受け継いできたジャズの先人たちとの出会いも、私の歌を客席で受け止めてくれるリスナーとの出会いも。


そのすべてが「鏡」となって、初めて自分自身の輪郭を教えてくれる。


自分らしさは、一人で掘り下げる暗闇の中ではなく、他者との響き合い(対峙)の中で、ふっと姿を現すものなのだ。


◆ 「自分の感覚」と「他者の反応」は一致しない


― 歌は、そのズレを猛烈に教えてくれる


ライブが終わったあと、「今日は全然ダメだった…」と一人で撃沈している日がある。


ところが終演後、お客さんから

「今日の歌、本当に凄かった!胸に刺さった」と熱っぽく声をかけられたりする。


逆に、自分の中では「今日のグルーヴ、完璧!バッチリ決められた!」と手応え十分だったのに、案外客席の反応が薄く、通り一遍の拍手で終わることもある。


自分の内側から見えている「自分」と、他者の耳を通して届いている「自分」は、驚くほど一致しない。


音楽は、特に生の「声」という表現は、その圧倒的なズレと面白さを、私たちに容赦なく突きつけてくる。 だからこそ、面白いのだ。


■ おわりに


自分らしさ(個性)なんて、一人で部屋にこもって見つけるものじゃない。


誰かに憧れ、


誰かを真似し、


誰かと音を重ね、


誰かの前に立ち、


誰かに映し返される。


その繰り返しの中で、「私」という輪郭は少しずつ浮かび上がってくる。


憧れた声も。


盗んだクセも。


苦手と向き合った時間も。


他者に教えてもらった自分らしさも。


そのどれ一つ欠けても、今の私の声にはならなかった。


声という楽器には、完成がない。


歳を重ね、人と出会い、新しい音楽に触れるたびに、その響きは少しずつ形を変えていく。


だから今日の「私らしさ」も、きっとまだ途中経過なのだろう。


声という生身の楽器を鳴らす旅は、きっと一生終わらない。

 
 
 

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