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私なりの、『自由に歌う』までの道のり

7月7日
読了時間: 10分

更新日:7月10日

地道に歌っていると、


「自由に歌っていますね!」と言われることもあります。


でも実際には逆なのかもしれません。



「もっと心のままに、自由に歌ったらいいのに」


と言われることもあります(^-^; それも1つの考え方です。



でも、最初から


「自分らしく歌おう」とはしない曲があります。



誰かが歌っているときに、私が最初に耳を澄ませるのは、


上手い下手ではなく、


その人が自分に課しているルールなんです。


”美学”とか”哲学”、”品”のようなものが、


耳や目を伝ってドワーッと流れ込んでくる感覚。


何を守り、何を崩し、どこで自由になっているの?


で、どこでは決して譲らないのか。


こういう聴き方をしてしまうのは、おそらく、


私が元々、VOCAL JAZZの概念の人だからなんでしょう(笑)。


私自身についても、


その辺りが曖昧なうちは「歌えた」とはならないのです。



でもこれって、歌や音楽以外のことでも言えてるんじゃないでしょうか。


私は勝手にこれを、タカギ式『守破離』などと呼んでいます(笑)。




まずは約束事があると感じたなら、徹底的に観察する。


そしてミミック、真似る。



出来ないところは、どうして出来ないのか考える。


それは、努力で届くものなのか。


身体の構造、骨格、声帯の違いなのか。


毎日少しずつ調整すれば届く世界なのか。


そこを見極めます。



神様がいらっしゃるとしたら、


個性豊かに我々をお創りになられたわけで、


ココまでなら出来る、とか、


様々なのには理由があるのでは?と思います。 ココまでしか出来ない💦


ちっとも出来やしない💦


そんなことで落ち込むより、どこかで区切りをつけて、


「出来るようになる可能性があること」を探すほうが


理に適っているというか、前向きかなと思います。



JAZZでも、絵画やスポーツなどの世界でも、


最初のうちは優れたものを


徹底的にコピーしようとするところから始まります。


なにがわりと苦もなく出来て、


なにが不得意なのかにしっかり見つめて、


苦しいけど向き合って、


なるべく同じように出来るよう調整していく。



声は楽器なので、


持って生まれた声帯の形や骨格によって発声可能なところで、


なるべく出来る範囲でやってみる。


努力ではどうにもならないことにフォーカスするのではなく、


日々調整していたら間に合ってくる領域なのか見極めて、


出来る限りのことをする。これです。


「嗚呼、ホイットニー先生に比べて滑らかさが程遠い💦」、


「OH、チャカに比べて太さが足りない」、


「ジェームズの荒々しさが全く出ていない!」、


「もっと寝ぼけてるときみたいに歌わんとSmellsらしくない」


等々、大前提を踏襲するんです。(出た、踏むの文字。)



自分にとって不得意やわ~慣れへんなぁ~という、


お手本と比べて欠けている部分のうち、


日々の心掛け(練習次第)で間に合うところは


何度も何度もやってみる。



この段階をすっ飛ばすと、


得意なことだけがさらに得意になっていきます。


それもいいけれどね。個人的には深みがないと、感じるものです。


例えば、フィギュアスケート。


とにかく心のままに2回転、3回転とクルクル遊び心いっぱい。


ときおり楽曲に合わせてポーズを決めながら、


最初から最後まで思ったように滑ってみること。


それも大事なことです。



一方で、滑らかに流れるようにスタートさせながら、


要所要所で高い得点の3回転ジャンプを入れてくる。


イナバウワーで優美に広々と観客を魅了して、


後半になって3回転ルッツ + 3回転トウループの合わせ技。


こんなタイミングで、スタミナ切れそうでも意地でも跳ぶ。



観ている側としては、


なめらかに美しい演技であることにプラスして、


難しい技をプログラムに組み込んでいるほうが


ドキドキするし、ハラハラするし。心が動くものです。



点数の低い「3回転サルコウ(4.30点)」ばかりであっても、


ただただ、得意の「イナバウアー」で


圧倒的に美しい流れと完璧なフォームで跳べば、


出来栄え点で大逆転して、


雑に跳んだ上のランクのジャンプを食ってしまうことすらある。


だからといって、


普段から得意のイナバウワーだけ練習してても


他のことが全然追いつかないだろうし、


Metallicaの『Fuel』みたいな「トリプルアクセル」全開、


地声で限界突破する咆哮のように歌われている曲を、


女子だからセクシー&キュート路線に…


あるいは清涼感のある声で乗り切ろー!みたいには、


ん~私の場合は考えにくいです。


せっかく取り組むと決めたのだから、


苦手なところ、弱いところが


ボチボチ克服出来ていたらステキなんですが、


ままならないこともありますよね。


人それぞれ頭の構造にも個性があって、


「あれー?何度やっても結びつかないなぁ」


ということもあるでしょう。


なんらかの特性があって習得が阻まれるようなこと、


それはその人の個性なのだから受け入れて。


「自分はこれは苦手なんだ」と分かった、それこそが財産です。


以後は「苦手なんです」と掘り下げずに、


その方面だけはテケトーに周りに合わせながらやり過ごす。


苦手なことが克服できても出来なくても、


ある程度、”型”を守れるようになったら次は、


『破→離』が起きてくるでしょう。


段々、自分ならこうするんだけどなぁ、というフェーズが来て、


しかも結構ええ感じやんと、その人らしさが出てくる。


やがてお手本などは遠い昔の話。


気づいたときにはその人そのものになって、


すっかり板についてくる、というわけです。


『守破離』じゃなくて、


『愛・破離』というか(笑) 原曲への愛、そしてどこまでやれるのか自分に向き合った愛。 でも、全ての曲で『守破離』が適応されるわけではなくて、


私がリスペクトしているからこだわってしまうんです。


原曲の方が素直で特にこだわりなく、


ありのままの歌い手さんの場合は私も好きなように歌うだろうし。



元々の声自体に特徴があって、歌唱スタイルが定まっているならば、


そのままその人らしく歌ったほうがいいでしょうね。


俳優で言うと、トム・クルーズはトム・クルーズだし、


キムタクは何を演じてもキムタクなんだろうという安定感。



昔からジョニー・デップが好きですが、演じる役によって全然違う。


松ケンや綾野剛、大竹しのぶさんとか、日本にもいますね。



歌の世界でも、生まれ持った『声』という楽器に特徴があって、


そのままでいい、ありのままでいい、


変えないほうがいいというか、


変えようがない個性を持っているとか。


そういう場合は、自分ルールでいいのかもしれません。



自分の場合は最初から「自分らしく歌おう」とは


ならないことのほうが多いんです。


原曲の歌い手さんの人生を尊重する。


そのうえで、少しずつ自分が混ざっていく。


この考え方は歌だけではないと思っています。



人には、それぞれ学び方があり、


ある人は、お師匠の動作を見ただけですぐ覚える。


ある人は、身体で覚えるまで何度でも、やる。


何度やっても結びつかない、ということもあります。


それは努力不足とは限りません。


脳の特性や認知の仕方によって、


どうしても難しいこともあります。


それはもう、個性です。



最初っから「努力しなくていい」と言いたいわけではなく。


むしろ、自分で決めたことなら、


一度は本気で、ギリギリまで踏み込んで、


向き合ってみたらいいと思っています。


ただ、その先で見えてくるものがあります。


たゆまぬ努力の末に手が届くものなのか、


上手いこと出来るように工夫をすれば届くものか。


そして、どれだけ時間をかけても届かないもの。


この三つは、案外ごちゃ混ぜに語られています。


「根性が足りない」の一言で全部片づけることには、


どうしても違和感があるのです。



そして、「努力すれば何でも出来る」とは思っていません。


むしろ、その考え方に苦しめられてきた側です。


努力しても届かないことはあります。


身体(骨格や扁桃腺の形状、横隔膜の強さ)の違いもある。


認知の違いもある。

(音程から入る?身体で覚える?響きで?パターンで?模倣?)


育った環境もある。

(実家が太くて、好きにやっていい環境だった、


あるいは逆に、過酷な環境で育ったため音楽どころではなかったり)


早くから音楽に触れられた人もいれば、そうではない人もいる。


出会う先生も違えば、練習に使える時間も違う。


その違いを全部飛び越えて、


「努力が足りない」で片付けてしまうのは少し乱暴に思うのです。


その上で、やってみたからこそ、


「これは伸びる。」「これは届かない。」が見えてくる。


その見極めまで含めて、努力なのでは?



あと、「早く始めた人だけが本物」という考え方にも、


違和感を持ちます。


そりゃ、幼い頃から積み重ねた人にしか見えない景色があります。


それは尊敬しています。でも一方で、


四十歳からでも、五十歳からでも、


人生経験を積んだからこそ歌える歌もある。


若い頃には表現できなかった音楽もある。


音楽はスポーツのように記録を競う世界ではないはずで。



「何歳から始めたか」なんてどうでもいいかな。


「昨日の自分より、今日の自分」を大切にしたいのです。



でも、一方で、まだ出来ることの余地がある。


時間を掛ければ届く可能性だってある。


そう分かっているはずなのに、


練習とか、弱点を克服とか、泥臭いことしないで、


ただただ、楽しく楽しく、


「タイパだから」「コスパが悪いから」


と最初から向き合わないのは、少し違うんじゃないかな、と。



そして、年齢を重ねるほど、努力を続けられること自体が、


一つの才能なんだと痛感するようになりました。


だからこそ、その才能を持っている人は、


持っていない人を「努力不足」とだけ切り捨てないでほしい。


逆に、苦手なことがある人も、


「努力できない自分はダメなんだ」と思わないでほしい。


それぞれに違う地図を持って生きているのだから。



なんの苦もなく、何でもこなしてしまう人がいる一方、


頑張っているつもりが、


なかなか点と点が線に結びつかない、


そんな自分に嫌気がさす日もあります。



あまり思いつめないで、


「守」が長いのも個性だと受け取って。


あるいは、「守」の一部だけを身につけて、


「破」や「離」に進む人がいてもいい。


大切なのは、


他の人と同じ順番を踏むことではなく、


自分なりに理解できたところから、


自分の表現を育てていくことだと思うんです。



自分なりに原曲の美学に触れて、


一度、自分の身体で生きてみる。すると、


「ああ、この人の目の前には、


こんな景色が広がっていたのか。」


と、なんとなく私も理解出来る瞬間が来ます

。


その瞬間を待っている、というより、


その瞬間に生きていると言い切ってもいい。


例えば、俳優さんが実在した人物を演じるとき。あるいは、


有名なミュージカルで長年愛されてきた役を受け継ぐとき。


きっと目指しているのは、コピーではないはずです。



口調を真似ることでも、仕草を真似ることでもなく、


その人が、何を見て、何を感じて、


その人生を歩いてきたのか。


そこへ近づこうとしている。


だから観ている私たちも、その役を通して、


ほんの少しだけ、その人の人生を追体験できる。



私は、歌も同じなんじゃないかなと思っています。


日々、同じようにやってみようとして、


「やっぱり、この人はすごいな。」と何度も思う。


そうやって敬意を払い続けながら、やがて、


「自分ならこうするかもしれない。」あるいは、


「自分の場合は、こうするしかないな。」


そんな瞬間がやってきます。



そこから初めて、自分の歌が始まる。


私は、そのように捉えています。


最初から「自分らしく歌おう」とはしない。


その人が見ていた景色を見ようとして、


その人が美しいと思ったものを、


私も一度、美しいと感じてみる。


そうやって生まれた


「私は、こう感じる。」を、大切にする。


それでええんちゃうかな、と。


「また誰かが、誰かを生きてみる」


案外、そんな地味な積み重ねが、


音楽という文化を、次の時代へ手渡している。


そんなふうに思っています。



 
 
 

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