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感性と科学の狭間で歌うということ

■はじめに

人間は、先に言葉を完成させ、そこへ音程やリズムを加えて歌を作ったのでしょうか。 歌や声についての本を図書館で読んでいたときに、私なりに突き合わせてみたんですが、いろんな説があるそうで。

私は歌やリズムが先で、段々言葉になっていったんじゃないかと思っています。。 赤ちゃんを見ていてもそう思います。音の高低で遊んだり、「あー」「うー」「ばぶばぶ」「まんま」「だーだー」のような掛け声の長さ、リズム、抑揚で大人とやり取りします。

おそらく人間は、歌と言葉がまだ分かれていなかった頃から、声の高低や強弱、息の速さ、繰り返しや間を使って、互いの感情や意図を伝えてきたのでしょう。

それは今の基準で見れば、会話でもあり、歌でもあり、叫びでもあり、祈りでもあった。

まず意味の整った言葉があり、あとから歌が生まれたのではなく、意味と感情とリズムが溶け合った声の営みから、やがて「話すこと」と「歌うこと」が枝分かれしていったのかもしれません。

そう考えると、歌は言葉に飾りをつけたものではありません。

言葉よりも古いとは断定できなくても、少なくとも、言葉と同じ根から伸びてきた、人間の原初的なコミュニケーションの一つなのだと思います。


「歌は、感性のものだからね」と言われるのも頷けます。

胸の奥から湧き上がってくる感情を、そのまま声に乗せる。

歌詞の世界に入り込み、魂の赴くままに歌う。

もちろん、それも歌の大切な一面、だけれども。

私の中では、熱いフィーリングのすぐ隣に、いつも冷静な“科学”が座っています。

心の奥で揺れ動く感情。それらを声や音に乗せていくために、ほぼ感覚だけで処理しているときと、少し立ち止まって頭で考えているとき。

そんな心や頭の動きを、少し離れた場所から観察している、自分。

その両方が同時に噛み合って、初めて私の歌は形になっているようです。

感性だけでも足りない。

科学だけでも届かない。

感情に身を任せながらも、自分が今、身体のどこを使い、どこへ声を運び、何を選んでいるのかを見失わない。

その狭間で揺れながら、思考を止めずに声を鳴らすこと。

それが、私の歌のスタイルです。

お喋りや文章も同じかも。

①「なんかイイ、とか、イヤだな。」と言った。

⇒気持ちをそのままを綴る。

②なんでそう思ったのかを頭で考えて話した。

⇒理由とともに綴る。

③分かりやすいように工夫して、伝えた。

⇒ 読み手に届く工夫をして綴る。

①番は個人的な感情や感想、②番はその理由を自分なりに考えてみて、

③番目で客観性とか、他者が入ってきます。 例えば、街で人気のお店でスイーツを食べて、SNSで投稿するとき。

①「めっちゃ美味しかったー」と素直に表現。

②美味しいと思った理由を考えて振り返ってみた。

③興味を持ってもらえるように工夫して伝えてみようとした。


1番多いパターンは①かも。 コロナ前に、誰かが話題の店に食べに行った写真がよく挙がってたんですが、大概が①番の素直な感想。良い悪いの話ではなく、


言葉にすることにウェイトをあまり置いていないのかもしれないし、単純に時間がない場合もあります。たまに、 「私はタカギさんみたいに文才が無いから💦そんな長くかけない。」と言われたこともありましたが、いやいや。細かいことは抜きにして、「美味い」とひと言。分かりやすい。


②が書かれているときは、個人的な味の好みや体験談として「へぇ~、そうなんや~」と言う感じで読んでいます。


③は、もう食レポレベル。説明する言葉の多い少ないじゃなくて、「私も食べに行きたい―!!」と思わせるウデがある。


『心で受け止めたこと気持ちを、ただ何となく綴るだけではなく、 理由を付け加えて自分なりに説明しようとして、 聞き手、あるいは読み手が分かりやすいように客観的になって整える、私。』

ここまででワンセット。 歌も同じだと思っています。 ①心のまま、ありのまま歌ってみた。 ②なんで心が動いたのか自分なりに解釈しながら声にして歌った。

③そんな自分をどこか俯瞰しながら届けたい想いを声にして歌った。

ワンセットです。

いろんな人が歌う姿を見ることがありますが、

①のありのまま、聞かせてくれる人もいます。

②のように、心の動きを届けようとしてくれる人もいます。

③のようにどこか自分を一旦脇へ置いたような歌い方の人も、います。 憧れからくる人もいます。 ①誰かに憧れて、その人みたいに歌ってみた。

②誰かの心が動いたように、自分なりに解釈して歌っている。

③誰かのように歌う自分を客観的に見て、何を届けるか工夫して歌う。 そういうこともあるでしょう。 ①のようにありのまま歌っているだけで、 ③までも同時に成し遂げてすっかり別次元✨という方も稀だけどいます。

元々、人を魅了する声を持って生まれて、個性的で唯一無二。 ありのままでも、パッケージ化された力のある声だったり、

『自分のやりたいようにやること=人々が求めていること』

という図式が成り立つ、非常にラッキーなパターンです。 神様からの『ギフト』と呼ぶかもしれないし、

『天才』と形容されることも。

そういう人は、ちょっとだけ商業向きにボイストレーニングでクセを調整するだけでブランドになるので、すぐにでも大手事務所が欲しがる人材でしょう。


神様がおられるとしたら実に残酷で、私から見ると欧米の人ってみんな整った顔立ちで足も長っがい。そして色素の薄い透き通るような目。みんなモデルやハリウッドの人みたいで羨ましいんですが、 生まれ持ったガチャのおかげで、あまり努力や苦労を経験せずとも世の中から求められるというケースもあります。実家が太かったり、スポーツ一家だったり、医者や弁護士、東大など有名大学出ばかりの優秀な家系だとか。

当たり前のように、『①=ほぼ③』の人が存在するものです。 そういう方には、そういう方なりの苦悩や苦労があります。 身近なところでも話し声からユニークでうらやましい人に会いますが、ええなぁと思っても個人的にはそないに惹かれないんです。アメリカのオーディション番組でも、ありのまま歌うだけでフランク・シナトラなお兄ちゃんとか、 日本の芸人さんでも狙ったわけではないのに歌いだすと忌野清志郎になってしまう人がいました。トム・クルーズが何を演じてもトム、キムタクが何を演じてもキムタクなように、そういう人はいます。 自分の場合は、ジョニー・デップとか松ケンみたいな、キャラづくりや表現の振り幅がこちらの想像を超えてくる人に夢中になるほうで。①=③より、いろんなパターンを行き来するほうが自由でいいなとまず目を奪われます。

①~③はシンプルにしただけで、実際にはもっとパターンはあるのですが、 私の場合は、10年前にJAZZ系のセッションなどで歌い始めるまで、③に偏りがあったなと振り返ります。③をする必要がそこまで無い暮らしをしていたし、当たり前と言えば当たり前に一旦フラットなところから、気持ちを新たに取り掛っていきました。


◆「科学する」という姿勢

――介護研修で出会った、七十六歳のエネルギッシュなマダムの言葉

今から十年ほど前、必要に迫られて、介護福祉士実務者研修を受けたことがあります。

そのとき、アセスメントの授業を担当されていた七十六歳の女性講師の姿が、今でも鮮明に胸に残っています。


とにかくパワフルで、エネルギッシュなマダムでした。

年齢を聞かなければ、誰も七十六歳だとは思わなかったでしょう。

頭の回転が速く、声にも張りがあり、教室全体を一瞬で自分の空気に変えてしまう。


その先生の口ぐせが、これでした。

「状態が変わるには、必ず原因がある。それを“科学”していく姿勢が大事なのよ」

ここでいう“科学する”とは、難しい数式を解いたり、白衣を着て実験室にこもったりすることではありません。


目の前に起きていることを、「なんとなく」で片付けない。

よく観察し、何が以前と違うのかを確かめ、なぜそうなったのかを考える。


一つの原因だけで決めつけず、身体、環境、心理、人間関係など、いくつもの可能性を並べてみる。

仮説を立て、実際の反応を見て、違えばまた考え直す。


つまり、対象を客観的に観察し、分析し、「なぜ今、こうなっているのか」という仕組みや法則性を、粘り強く解き明かしていく姿勢です。

介護の現場では、利用者さんの状態が昨日と違えば、そこには何らかの理由があります。


急に食事が進まなくなった。

いつもより口数が少ない。

歩き方が少し違う。

眠れていない。

表情が硬い。


それを単に、

「今日は機嫌が悪いんでしょう」

「年だから仕方がない」

で済ませてしまえば、本当の原因を見落とすかもしれません。


身体の痛みかもしれない。

薬の影響かもしれない。

家族との出来事が心に引っ掛かっているのかもしれない。


一見、同じように見える変化の裏にも、それぞれ違う事情があります。

だから、見る。

考える。

決めつけず、また見る。


そのマダムの言葉は、介護の現場だけでなく、その後の私の「歌」に対する向き合い方にも、深く根を張ることになりました。


声もまた、何の理由もなく変化するわけではありません。

昨日は楽に出た音が、今日は出にくい。

同じフレーズなのに、今日は言葉が前へ飛ばない。

高音に差しかかると身体が固まる。

録音を聞くと、自分が思っていたよりも声が重い。


そのとき、

「今日は調子が悪い」

「私には才能がない」

と感情だけで結論を出すのではなく、


なぜ、そうなったのか。

いつもと何が違うのか。

呼吸なのか、姿勢なのか、睡眠なのか。


言葉の発音なのか、気持ちの入り方なのか。

あるいは、曲の解釈そのものが、自分の中でまだ定まっていないのか。

一つずつ観察していく。


私にとって「歌を科学する」とは、そういうことです。


◆歌は「ソウル」だけでは成立しない

――魂を支える、身体のメカニズム

音楽や歌唱の世界は、何かと、

「ソウル」

「フィーリング」

「感性」

といった抽象的な言葉で語られがちです。


「あの人には魂がある」

「あの歌には気持ちがこもっている」

「考えすぎず、感じたまま歌えばいい」

そう言われることがあります。


もちろん、歌に感情は必要です。

歌詞にも、リズムにも、音にも、その人の熱が通っていなければ、どれほど正確でも、心には届きにくい。


しかし現実にマイクの前に立ったとき、ソウルはソウルだけで空間へ飛んでいくわけではありません。


感情を、実際の「音」へ変換しているのは、生身の身体です。


なぜ、あの人の声は、あれほど空間を震わせるのか。


どのような呼吸と身体の使い方で、あのダイナミクスを生み出しているのか。


どうして、あれほど力強く聞こえるのに、身体には余計な力が入っていないのか。


なぜ、囁くような小さな声が、会場のいちばん奥まで届くのか。


どの母音を、どの形で鳴らしているのか。


どこで息を流し、どこで声の芯を立てているのか。


そうしたことを、単に、

「才能が違う」

「生まれつき声がいい」

で終わらせず、観察し、試し、自分の身体で確かめていく。

それが、私にとっての“科学”です。


誰かの歌を聞いて、素晴らしいと思ったときも、感動だけで終わりません。

何に感動したのか。


声量なのか。

音色なのか。

言葉の置き方なのか。


歌い始める直前の、あの一瞬の間なのか。

子音の鋭さなのか。

あえて語尾を消したことなのか。


リズムの少し後ろに声を置いたことで、独特の粘りが生まれたのか。

自分の心が動いた理由を、できる限り細かく見ていきます。


そして、自分の身体では何ができるのかを試してみる。

同じことをそのまま再現できなくてもいいのです。


骨格も、筋肉も、声帯の性質も違います。

その人の身体で成立している仕組みを理解し、自分の楽器に合う形へ翻訳する。

そこまでやって初めて、観察したものが、自分の歌の一部になっていきます。


魂だけで歌えば、声が感情の波に呑み込まれることがあります。

気持ちが高ぶるほど、息を押しすぎる。

悲しみを表そうとして、喉を固める。

強さを見せようとして、必要以上に声を張り上げる。


感情そのものは本物でも、身体がそれを処理できなければ、声が壊れたり、音楽が平坦になったりします。


一方で、裏側に冷静な科学、つまり身体を扱うためのロジックを走らせておけば、感情は安全に、そして大胆に動けます。


泣き叫ぶような声を出しながら、実際には喉を守っている。


崩れ落ちそうな感情を表しながら、呼吸の軸は失っていない。


自由奔放にフェイクしているようで、コードとリズムの位置は見失っていない。


その冷静さがあるからこそ、感情はもっと遠くまで行けます。


感性で歌い、科学で支える。


科学は、感情を縛る檻ではありません。

感情を壊さず、自由に解き放つための土台です。


その両輪がそろって初めて、声は本当の意味で自由になるのだと思います。


◆「感性だけで歌っている」と思われる裏側で

――歌い手の身体では、一瞬で膨大な判断が行われている

ボーカルというパートは、どこか、

「マイクの前に立って、なんとなく心地よく歌っているだけ」

と見られやすいものです。


楽器を持たない。

鍵盤を押さえるわけでも、弦を弾くわけでもない。

外からは、口を開いて声を出しているだけに見える。


けれど実際には、歌っているその数分間、身体の中では、恐ろしいほどの速度でリアルタイムの判断が行われ続けています。


吐き出す息の圧力とスピード。


声帯をどの程度閉じるのか。


息を多く混ぜるのか、声の芯を立てるのか。


頭部や胸郭のどのあたりに振動を感じるのか。


身体の重心と軸が、どこへ動いているのか。


子音をどのくらい鋭く立て、母音をどのくらい長く残すのか。


リズムのどこに声を置き、どこで抜くのか。


どこで踏ん張り、どこで脱力するのか。


一つ前のフレーズで使った息を、次の一音までにどう回復させるのか。


ピアノが今、どのような和音を提示したのか。

ベースがどこへ進もうとしているのか。

ドラムの一打が、こちらへ何を求めているのか。


客席の空気が今、こちらへ近づいているのか、離れているのか。


これらを一つずつ言葉にしながら歌っているわけではありません。

そんなことをしていたら、歌が先へ進みません。


長い時間をかけて身体に染み込ませてきた判断を、コンマ数秒の単位で選び続けています。

それは「計算」というより、鍛えられた反射神経に近いのかもしれません。


車の運転に慣れた人が、アクセル、ブレーキ、周囲の車、信号、歩行者、道路の幅を、いちいち言葉にせず同時に処理しているのと少し似ています。


ただし、歌には正解が一つではありません。

毎回、身体の状態も違う。


共演者の音も違う。

会場の響きも違う。

その日の感情も違う。


だから、覚えた動作を再生するだけでは足りません。

今この瞬間に何が起きているのかを感じながら、常に微調整していく必要があります。


聞き手には「感情のままに歌っている」ように聞こえても、その裏側では、脳と身体による高度な処理が動き続けています。


ただし、その計算が表に見えてしまえば、歌は途端に窮屈になります。

「次はここで息を吸います」

「ここで響きを移します」

「この子音を前へ出します」

と、作業が聞こえる歌になってしまう。


裏側では冷静に判断しながら、表では、そのロジックを忘れたように歌う。

考え抜いた末に、考えていないように見せる。


その状態へ持っていくことが、私にとって一つの理想です。


◆「説明しすぎると、本質から離れる」という矛盾

――歌は、言葉にした瞬間に逃げていく

けれど、ここで面白い矛盾が生まれます。

これだけ自分の中で観察し、分析し、科学しているにもかかわらず、


「どうして、そんなふうに歌えるの?」

「そのやり方を、言葉で教えて」

と問われると、私は途端に口を閉ざしたくなってしまうのです。


もちろん、ある程度なら説明できます。

息の使い方。

身体の支え方。

発音の工夫。

リズムの捉え方。


声色を変えるとき、身体のどこを変えているのか。

一つずつ取り出して、言葉にすることはできます。


しかし、歌は極めてパーソナルで、生身の身体そのものを使う行為です。

私の身体で起きていることを、そのまま他の人へ渡しても、同じ結果になるとは限りません。


骨格も違う。

声帯も違う。

舌も、顎も、歯並びも違う。

育った土地の言葉も違う。


これまでどんな声を出し、どんな声を抑えてきたのかという、身体の記憶も違います。

だから、

「私はこうしています」

という説明はできても、


「こうすれば、誰でも同じようにできます」

とは言えないのです。


また、頭の中のロジックを安易に言語化しようとすればするほど、大事な歌の本質、つまり熱量や空気感が、指の隙間からサラサラと逃げていくような感覚になることもあります。


なぜ、そこで声を掠れさせたのか。

なぜ、その言葉だけを強く発したのか。

なぜ、一拍待ったのか。

あとから説明をつけることはできます。


けれど、歌った瞬間には、理屈だけで選んだわけではありません。

身体と感情と、それまで聞いてきた音が一つになって、自然にそうなった。


それをあとから言葉だけに分解すると、大切な何かがこぼれ落ちます。


手品師が種の仕掛けを事細かに説明したら、マジックの感動が消えてしまうように、裏側のロジックを語りすぎるのは野暮というものです。


しかも、手品は種を知っただけでは、同じようにはできません。

指の動き。

観客の視線を誘導するタイミング。

何度も失敗し、身体に覚えさせた技術。


そうしたものがそろって、初めて一つの魔法に見えます。

歌も同じです。


方法を知ることと、その方法が身体に宿ることは違います。

説明を理解することと、一瞬の本番で自由に使えることも違います。


だから私は、説明よりも、一つの“音”として提示したいと思うことがあります。

理論は、自分の中に深く秘めておく。


必要なときには取り出せるけれど、それを作品の前面には並べない。

「この技術を使っています」

と看板を掲げるより、聞いた人が、


「なぜか分からないけれど、今の一音が残った」

と感じてくれれば、それでいい。


分かってくれる人とだけ音を重ねればよい、という閉じた意味ではありません。

すべてを説明しなくても、音そのものが人と人をつなぐことがある。

その力を信じていたいのです。


◆「私はこうだ」と言い切る覚悟

――個性は、曖昧なままでは立ち上がらない

日本の風土や教育には、自分の主張を強く打ち出すことや、

「これは好き」

「これは嫌い」

とはっきりと言い切ることを避ける傾向があります。


場に馴染み、他者と穏やかに暮らすための知恵としては、正しい部分もあります。

けれど、歌の世界において、その「曖昧さ」が命取りになることがあります。


周りに合わせることと、周りの音を聞くことは違います。

人の意見を尊重することと、自分の意見を持たないことも違います。


アンサンブルの中で歌うには、共演者の音を深く聞く必要があります。

けれど、聞いた上で、

「私は、この音をここへ置く」

と決めなければなりません。


「私はこうだ!」

と腹を括って言い切らなければ、バンドの音の波に呑み込まれ、個性なんて影も形もなくなってしまいます。


ここでいう「言い切る」とは、誰よりも大きな声を出すことでも、周囲を自分の都合で振り回すことでもありません。


静かな声でもいい。

短い一音でもいい。

歌わずに残した一瞬の間でもいい。


その選択に、

「私は、これを美しいと思う」

という意志があることです。


歌は、他人の「正しさ」をなぞるだけのものではありません。

音程が正しい。

リズムが正しい。

発声が正しい。

発音が正しい。

そうした基準は大切です。


しかし、すべての正しさを満たしても、そこに本人の美学がなければ、歌は誰かの模範解答のようになります。


反対に、少しくらい綺麗に整っていなくても、

「私は、こう聞こえている」

「私は、この言葉をこう受け取った」

という意思があれば、その声はその人にしか出せないものになります。


科学は、正解を一つに決めるために使うものではありません。

自分の選択を、より自由に実行するために使うものです。


感性が、

「ここで、こう歌いたい」

と望んだとき、


身体が、

「その音なら、この方法で出せる」

と応える。


その関係ができて初めて、美学は頭の中の理想ではなく、実際の音になります。


◆「逃げずにコツコツ取り組むこと」が、私のライフワーク

――感性と科学をアップデートし続ける

「あの人は、もともとの声質が違うから」

「私には、そんな技術はできっこない」

そう言ってしまえば、楽です。


確かに、生まれ持った身体の違いはあります。

誰もが同じ音域を出せるわけではありません。

同じ太さ、同じ高さ、同じ音色の声になることもありません。


努力で越えられない境界は、確かにあります。

だからといって、最初からすべてを、

「才能が違う」

で片付けてしまえば、自分の身体が持っている可能性まで見失います。


なぜ、できないのか。

本当に身体の構造上できないのか。

それとも、まだ方法を知らないだけなのか。


恐怖で身体が固まっているのか。

以前に失敗した記憶が、無意識にブレーキをかけているのか。

今の出し方では届かなくても、別の声色や別の響かせ方なら届くのか。


一度立ち止まり、自分の身体に問い直してみる。

できない自分を責めるのではなく、できない理由を観察する。

それが、「科学する」という姿勢なのだと思います。


泥臭く、自分の身体と向き合う。

すぐに成果が出なくても、コツコツと課題に取り組む。

工夫し、解剖し、試してみる。


うまくいかなければ、やり方を変える。

以前の正解が、今の身体には合わなくなっているなら、また作り直す。

声は、年齢や生活や心の状態とともに変化します。


十年前に出せた声を、そのまま保存し続けることはできません。

けれど、変わることは衰えることと同じではありません。

若い頃にはなかった低音が育つこともある。


経験を重ねたことで、以前より短い一音に多くのものを込められるようになることもある。

勢いで押し切っていた歌を、今は余白で聞かせられるようになるかもしれない。


その時々の“今の自分”を観察し、その身体で最も自由に鳴る声を探していく。

感性も科学も、一度完成すれば終わるものではありません。


聞く音楽が増えれば、感性は変わります。

身体が変われば、必要な技術も変わります。


生き方が変われば、同じ歌詞の意味も変わります。

そのたびに、自分の歌をアップデートしていく。


それこそが、私のライフワークであり、生き様そのものなのだと思います。


■感性と科学の狭間にあるもの

感性だけでも、科学だけでも足りません。

科学だけで歌えば、正確であっても、体温のない声になることがあります。


感性だけで歌えば、その日の感情に左右され、再現できない声になることがあります。

けれど、本来、この二つは敵同士ではありません。


科学が感性を抑え込むのでもない。

感性が科学を拒絶するのでもない。


感性が向かいたい場所を示し、科学が、そこへ行くための道を探す。

科学によって得た自由を使い、感性がさらに遠くへ行く。


その往復の中で、歌は少しずつ、自分にしか出せない形へ育っていきます。

そして、舞台に立ったときには、その両方をいったん忘れる。


忘れたように見えるところまで、身体に落とし込む。

裏側では冷静な観察を続けながら、表では、今この瞬間に生まれる音へ飛び込む。

それが私にとって、歌うということです。


■おわりに

胸の中にある熱い情熱、ソウルを、冷静なロジック、科学で支えること。

感情に呑み込まれず、しかし感情を殺しもしない。


身体を細かく観察しながら、最後にはその身体を信じて手放す。

その狭間で揺れながら、今日もマイクの前に立ちます。


歌うたび、身体の状態は違います。

共演者の音も、客席の空気も、その日に自分が抱えているものも違います。

だから、完成はありません。


昨日の自分をなぞるのではなく、今日の声を観察し、今日の方法を探す。

思い通りにいかない日も含めて、声と身体に問い続ける。

「今、なぜこう鳴ったのか」

「次は、どうすればもっと自由になれるのか」


その問いを持ち続けること自体が、私にとって歌なのかもしれません。

感性だけでも、科学だけでも届かない場所。


その狭間に立ち現れる響きこそが、私の歌の「核」です。

そして、その両方があるからこそ、私の声は、もっと自由になれるのだと思っています。

 
 
 

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