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欲望という名の列車

執筆者の写真: Keiori TakagiKeiori Takagi

大きな半紙にエイヤァと書道するみたいに。両手を広げるより大きな画用紙に好きな場所から絵を描き込んでいくように。全体を捉えながらディテールに凝っていくような作業をよくやっています。


本当は何が欲しくて、何が必要だからどう手に入れればいいかを分かっていたので、時間はかかっても迷いなく、見せかけだけのものにだまされず。目の前にぶら下げられた人参に心を躍らすことはありませんでした。


欲しいものを欲しいと言っていい時期を見計らって。10年前だったらただのワガママに映っただろうことをそうではないと、自信を持ってやるところまで。贅沢は極力我慢して、ただただ、飾り付けるよりは自分の足みを見ていました。


やりたい放題にやっているように見える人々を前にしても、どうせ長くは続かないだろうからと波風立てず。実は欲しいものはもう既に持っているので、そないに周りの人が欲しがっているものにワーッと群がりませんでした。


逆に、欲しいと思うべきものを欲しいと思えないのは何でなんやろうなぁ…自分がコレ欲しいなんて求めなくても、必要なものはススッと次から次にギフトカードのように届いていました。


そんなだから手に入らなくて傷つくことはなく、欲しいと思う気持ちに振り回されて疲れ切ることなどありません。そういう役割を求められるなら、そういうカードが揃っていくだろうと、楽観視です。


自分自身への攻撃とか、尊厳みたいなものを傷つけにきてるんだろうなぁと分かっていても年々無頓着になって、その方の根っこにある精神的な幼稚性や未成熟な部分、何を刺激しているから認められない→嫉妬→嫌み連発…へのメカニズムを辿るのかを、冷静に眺めます。


その代わりに、私が大事にしているものや人が傷ついているのに納得が出来ないです。一番敵に回してはいけない人に、ケンカを売ってしまいましたねと。普段温和にしている人を怒らせると、そこら一面焼け野が原の景色しか残りません。


ただ安心して生きていくという感覚が、ここ数年の騒ぎで余計に薄らいで。みんな余裕が無いように感じられます。


逆に、十分に歳を重ねて、あれもこれも贅沢に満ち足りている人がもっと、もっと!と独り占めするように求めている姿を見ることが多いです。


歌や音楽などの芸術活動でも、本来的な中身より『死ぬ前に経験したい50のこと』をただ叶えているだけで、アートという観点より年老いた自分を見守ってほしいような、お金で解決させる方向の方に会ったりします。


それでご本人もお店もお客さんも満足していたらいいのだけれど…。どの世界でもなかなか引退どきというのが分からなくて。若手がいつまでたっても場所を譲ってもらえないのだなぁと、相変わらずの面々が長きに亘って活躍しています。


もう十分すぎるほど持っているのに全然足りないと飢餓感でいっぱいで、今持っているものは欲しかったものではないからと次から次へ渇き外で潤そうとするけれど、


でも大前提として、何が欲しくて何が必要なのか分からないのでは本当にどこがゴールなのか分からないですよね…。


足りたとは言えなくて思い悩む人の目の前で、すでに十分持っているのに?心を踏みにじるようなことがよく出来るなぁと、この世界の矛盾しているところに嫌気がさします。

誰かの中に自分が持っていないものを見出して、持たされているからといって悪者に仕立て上げようとする人もいます。欲望に向き合う中で、人間の深い闇を見てしまいます。


人と比べるんじゃなくて、もっと自分自身と向き合うべきなのに。そんなことじゃ解決する問題もなかなか解決できないだろうになぁ…。。とにかく、心の安らぎが訪れますようにと、遠くから願うばかりです。

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