歌い手は、なんとなく歌っているだけなのか
- Keiori Takagi

- 1 日前
- 読了時間: 13分
――歌についての誤解と偏見
今回は、いつもの語り口調ではなく、です・ます調で綴ってみようと思います。
そのほうが、少し距離を置いて、歌い手という存在を取り巻くものを眺められる気がするからです。
もっとも、書こうとしている内容は、ずいぶん私自身の肉迫に近いものです。
冷静な文章を装いながら、ところどころで関西弁が顔を出すかもしれません。
それも含めて、今の私の声なのだと思います。
■はじめに
「歌い手」という役割は、時に残酷なまでに“見たまんま”で判断されます。
良くも悪くもステレオタイプなイメージを押し付けられ、外からは「言われ放題」。
声という生身の楽器だけを持って、マイクを握って立つだけで、ある種の“業”を背負わされる場所でもあります。
誰かの欲望や勝手な幻想、偏見までをも、体ひとつで引き受けてしまうからです。
けれど見方を変えれば、ボーカルとは、これ以上なく生々しく「人間というもの」に向き合う、極上のケーススタディ、つまり観察の現場でもあります。
何を見ているか。
何を聞いているか。
どんな人を好み、どんな人を怖がり、どんな人を自分より下だと判断するのか。
歌い手に向けられた言葉には、歌い手そのものよりも、言葉を投げかけた人の価値観や欲望のほうが、よく表れていることがあります。
歌を聞いているようで、実は自分自身を投影している。
ボーカルの世界には、そういうことが頻繁に起こります。
日本のボーカル、とりわけJAZZボーカルを取り巻く環境は、スポーツやバンド活動の世界にも似ています。
幼少期から専門的に学んできた人もいれば、大人になってから参入してくる人もいます。
独学もいれば、誰かに師事した人もいます。
誰でも、いつからでも飛び込める「懐の深さ」がある反面、だからこそ、「どこからがプロで、どこまでがアマチュアなのか」という境界線が極めてグレーになりやすい。
入口はどこまでも広く、奥はどこまでも深い。
職業で例えるなら、保育士や介護福祉士、あるいは栄養士の世界に近いのかもしれません。
人間の営みとして、子育てや介護を経験する人はたくさんいますし、毎日料理を作る人もいます。
けれど、「それを生業として引き受けるとはどういうことか」となると、話はまるで変わってきます。
単に「歌を口ずさむ」だけであれば、それは誰でも楽しめる日常の延長にとどまります。
けれど、声という生身の楽器ひとつで、人間の生々しさや想いを引き受ける領域へ足を踏み入れた瞬間、そこにはちょっとした専門性と「覚悟」が必要になります。
誰でもできる日常の延長に見えるからこそ、労力のわりに報われない。
軽視もされますし、時に言われ放題にもなります。
特に女性ボーカルの場合、見た目の華やかさから男性リスナーが集まりやすい側面もあります。
しかし、それゆえに、まるでラウンジホステスのように疑似恋愛へと持ち込まれ、ストーカー被害に発展したり、客同士のトラブルへの対応に追われたりするリスクとも隣り合わせです。
水商売的な立ち位置で歌っていると、より若く新しい歌い手が次々と現れ、顧客はあっという間に他へ流れてしまいます。
若さや新しい話題性など、歌とは別の部分で搾取され、客が呼べなくなれば使い捨てにされることもあります。
それは、歌を評価されているのではなく、「歌う女性」という商品価値を消費されている状態なのかもしれません。
世の中が消費したがる一瞬の流行や安易なバズに振り回されると、三年も経たないうちに飽きられ、長くやり続けていくことがむずかしい世界でもあります。
私の知る中でも、いつの間にか連絡が取れなくなってしまった人は数多くいます。
■最初に出会った「ボーカル像」
十一年前、私は近所のバーでやっていたJAZZ SESSIONに参加しました。
四十手前でJAZZを歌い始める人は、まあまあいるらしいです。
演奏で参加する人も、演奏しない人も、酔っ払いはややこしいものです。
「感覚だけで歌ってるんやろ」
「どうせ譜面も読めへんのやろ」
言葉の端々から、今までどんなボーカルに数多く出会い、SESSIONというものが回ってきたのかが、ある種の冷ややかさとともに伝わってくる人が何人かいました。
「俺が教えてやる」
「俺の歌はもう一つだけど、今まで聞いてきた歌モノについてはかなり詳しい」
等々、ご丁寧にスパルタで。
頼んでもいないのに構いに来る人も、中にはいました。
音楽のことになると熱くなるからなのでしょうか。
それにしても、距離が近い。
給料も出ないのに酔っ払い客の相手をさせられるラウンジ嬢のような気分になり、なんだか歌いづらくなりました。
「他の集まりにもお邪魔してみよう💦」
そう考えて、なるべくセイフティーな、自と他の境界がやんわりと保たれるような集まりに、自然と流れていきました。
場所を変えると、もちろん、別の人たちに出会います。
思った通りに、ありのままに歌う自然体のボーカルさんもいました。
譜面を読めなくても、抜群のセンスと個性で聴かせてくれるマダムにも出会いました。
譜面を読めることと、音楽が分かることは同じではない。
理論を知っていることと、人の心を動かせることも同じではない。
逆に、感性で歌うことと、何も考えていないことも同じではありません。
けれど、こうした違いは、外から見ただけではなかなか分からないものです。
集まりや場所を変えても、相変わらず酔っ払いに絡まれることは多々ありました。
一人や二人ではありません。
笑顔で順番待ちをしているだけで、
「あんたなんか能天気にヘラヘラ笑いやがって」
「なーんも考えて生きてないやろ」
と、周りのお常連さんを巻き込んで、笑いのネタにされることもありました。
歌は感性というけれど、表から見えない声の裏側には、人それぞれの歴史があります。
自分には見えていないところは「存在しない」と思う人もいるので、厄介です。
四十歳を前に、誰にも師事していない人間がポーンとSESSIONに飛び込めるのには、それなりの理由があります。
子どもの頃に、音楽の基礎について叩き込まれてきたので、初心者とはいえ、なんとか立っていられたのです。
その他にも、若い頃に打ち込んでいた演劇の世界、日々の人間観察で積み上がってきた感覚、声という楽器を自分なりに科学してきた蓄積が、すでにありました。
それらすべてが、目に見えなくても自分の土台になっていました。
だから酔っ払い客にも怯まず、よく分からないジャズおじさんの論理も受け流して、やって来られたようなものです。
◆歌い手は「なんとなく歌っているだけ」なのか
――世間が抱きがちな誤解
「ボーカルはなんとなく歌っているだけ」
「理論や理屈なんて考えていないし、譜面も読めない」
悲しいけれど、世間からも、そして時に、一緒に音を出す楽器奏者からすらも、そんなふうに思われてしまうことがあります。
「歌いたいように歌っているだけでしょ?」
と軽く扱われる悔しさを味わった歌い手は、きっと私だけではないはずです。
もちろん、私も実際に目にしたことがあります。
こりゃあんまりや💦という理不尽な歌い手さんに遭遇し、振り回されてきた演奏家たちの苦い経験を思えば、そう見えてしまうのも無理はないのかもしれません。
自分のキーも把握していない。
譜面も用意しない。
曲の構成も分かっていない。
なのに「伴奏が悪い」と言う。
そうした人に何度も出会えば、「ボーカルとはそういうものだ」という警戒心を持つ人も出てくるでしょう。
けれど、全員が全員、何も考えずにマイクの前に立っているわけではありません。
中には、考えていることをわざわざ口にしない人もいます。
表に見えないほど、身体に染み込ませている人もいます。
説明しないことと、考えていないことは違います。
簡単そうに見えることと、簡単であることも、まるで違うのです。
◆「今さら」「何も分かっていないくせに」
――レッテルは簡単に貼られる
私の歩んできた経歴を知らない人の中には、勝手なイメージだけで語ってくる人もいます。
しかも、大体が飲みの席です。
酔いが口調を荒くすることもあります。
「若い頃から感覚だけで人前で歌ってきたんだろうけど」
「そんなんだからダメなんだよ!」
まるで批評家気取りで、マウントを取るように。
求められてもいないのに、自分の思ったことだけを口にする人だって後を絶ちません。
最近も、ある集まりに呼ばれ、その場にたまたまおられた人たちが演奏してくださって、数曲歌わせてもらうことがありました。
たまたま観に来られていたお客さんの中に、ご丁寧に感想をくださり、話がしたそうなシニアの男性がいました。
「いつから歌ってるの?」
「どこで?」
「何を?」
簡単にインタビューされたあと、言いにくそうに、こう話し始めました。
「もっと、いい人に出会いに行かなければいけないよ? 世の中、もっと良い人はたくさんいるのだから」
「力を出し切っていないでしょ? そんなもんじゃない、アナタは」
「アナタの歌が主役なんだから。もっと、バーン!と歌い切るべきなんだよ」
さらに、
「なんでピアノやドラムの演奏に気を遣う必要があるの?」
「ピアノの出方、うかがってたでしょ?」
「周りの音なんて聴かなくていいんだよ! 周りを引っ張り回して、圧倒しなきゃ!」
と言われました。
そのとき歌っていたのは、ジャズバラードとボサノバのスタンダードです。
尋ねてみると、その男性はジャズはほとんど聞かないそうでした。
ならば仕方がありません。
競技の違いを理解していないのですから。
ジャズにおいて周りの音を聞くことは、遠慮でも、力不足でもありません。
音楽の中で交わされる会話に参加することです。
自分だけが大声で話し続けるのではなく、相手の言葉を聞き、それを受けて、自分の言葉を返す。
ピアノの出方を感じることも、ドラムの呼吸を聞くことも、ベースがどこへ向かおうとしているのかを感じることも、すべて歌の一部です。
周りを聞かずに圧倒することが正解の競技もあるのでしょう。
けれど、その日の私がやっていたのは、それとは違う競技でした。
そして演奏してくださった人たちは、「酔っぱらっててゴメーン!」と言いながらも、十分ステキな演奏をしてくださいました。
ありがとうしかありません。
別の集まりでは、私の出番が終わったあとに、違うシニアの男性が声を掛けてくださいました。
その方はフォークの弾き語りをされ、今までオープンマイクを中心に歌ってこられたそうです。
丁寧な感想をいただいたあとで、
「歌は良いんだけど、やっぱりさ。歌詞は最低限覚えなきゃ」
「俺は覚えてからがスタートだよ」
「それに、歌詞を見ながらじゃあ下を向いてしまって、声が前に出ていかない」
と言われました。
正論です。
ごもっともです。
私も、できることならそうしたかった。
でも、当日に歌ってねと頼まれた曲を知らされたのが二週間ほど前で、しかも、ほとんど知らない曲だらけだったとしたら。
一日の中に、歌に使える時間は限られています。
二週間、生活のすべてを投げ打って取り組むことはありません。
生活があるのです。
娘のことに加え、親の看病も入ってきて、ただでさえ四十代後半は忙しい。
すべての用務は専業ではなく、掛け持ちです。
しかも直近に別の用務があり、そちらのほうが役割のウェイトが重かったとしたら。
見えている数分間だけを切り取り、
「準備不足だ」
「覚悟が足りない」
と断じるのは簡単です。
けれど、その人がその場に立つまでに、何を抱え、どこへ時間を配分し、それでも何を持って来たのかは、外からは見えません。
私は特に反論しません。
段々、慣れてきました。
SNSでも、気になる情報だけ抜き取って、コメント欄に「?」なことを書き込む人はたくさんいます。
「人間、目に見える表面の印象がすべてという人もおるわな」
と割り切っています。
「わぁ、今日もまた、えらいレッテル貼られたもんやなぁ」
と、あとで身内と笑い話にして終わりです。
■人はなぜ、見えていない部分を勝手に埋めるのか
人は、分からないものを分からないままにしておくのが苦手です。
目の前の人について知らない部分があると、自分の経験や価値観を使って、空白を埋めようとします。
若い女性が歌っていれば、華やかさを売っているのだろう。
譜面を見ていれば、曲を覚えていないのだろう。
笑っていれば、何も考えていないのだろう。
大きな声を出さなければ、自信がないのだろう。
周りの音を聞いていれば、遠慮しているのだろう。
師匠の名前を出さなければ、何も学んでいないのだろう。
説明しなければ、理論を持っていないのだろう。
そうして、目の前の歌を聞くより先に、自分の知っている物語へと、歌い手を押し込めてしまいます。
しかし本来、歌を聞くという行為は、分からないものを、自分の分かる形にすぐ変換することではないはずです。
自分とは違う生き物が、自分とは違う声で、自分にはなかった感情を差し出している。
その違いに、しばらく耳を澄ますことです。
聞き手に必要なのは、すぐに採点する能力だけではありません。
自分の物差しが届かない場所にも、何かが存在しているかもしれないと想像する力です。
◆歌い手は、全員同じではない
歌の世界は入口が広いからこそ、いろいろな人がいます。
自然体で思った通りに歌う人。
理論的に組み立てて歌う人。
譜面を細かく読み込む人。
歌詞だけを頼りに、身体で飛び込む人。
誰かの歌い方を精密に研究する人。
何者にも似まいとする人。
観客を喜ばせることを第一に考える人。
自分の内側を掘ることを第一に考える人。
音楽を仕事として引き受ける人。
生活の楽しみとして歌う人。
それぞれが違う目的で、違う覚悟で、同じマイクを握っています。
だから、ある一人の歌い手に嫌な目に遭ったからといって、「ボーカルはみんなこうだ」と考えるのは乱暴です。
もちろん歌い手側も、「私は感性で歌うから」と言えば何でも許されるわけではありません。
他者と演奏するなら、他者の時間と技術を預かります。
最低限の準備や、相手の音を聞く姿勢、曲の構造を理解しようとする責任はあります。
しかし責任を持つことと、他人の好みに従属することも違います。
周りを聞くことと、自分を消すことも違います。
個性を持つことと、わがままであることも違います。
このあたりを雑に一括りにしてしまうから、「歌い手」という役割には誤解がつきまといます。
■おわりに
見たまんまの印象や、安易なレッテルで判断されるなら、その“見たまんま”になる性質を利用して、面白可笑しく歌ってやればいい。
願わくば、“見たまんま”を鮮やかに裏切るほどの声が、いつも共にあるように。
「そんなふうに思いたければ、思っておけば?」
と、静かに心で微笑みながら、マイクを握り、空間を自分の響きで満たします。
世の中が勝手に貼ってきたレッテルも、無神経な言葉も、すべて自分の「声」だけで鮮やかに打ち返す。
言葉で反論するでもなく、愚痴をこぼすでもなく、ただ声を発しているだけで、勝手に生き様が浮かび上がり、誰かを黙らせるなら結構なことです。
もちろん、本当に危険な言動や、越えてはいけない境界に対しては、声を上げなければならないこともあります。
何も言わずに耐えることだけが美徳ではありません。
けれど、相手の物差しの中に入り、延々と自分の価値を証明し続ける必要もない。
説明したところで聞く耳を持たない人に、人生の履歴書を一枚ずつ提出する必要はありません。
歌い手の履歴は、本当は声の中にあります。
聞こうとする人には聞こえるし、聞こうとしない人には、何を説明しても聞こえません。
だから最後は、音で返す。
それがいちばん誠実で、いちばん格好いい答えの用意のしかたやと、私はマジメに思っています。


コメント