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声という楽器―研究ノート Vol.1『Fuel』②

8月1日
読了時間: 40分

更新日:8月4日

② Metallica『Fuel』──身体へ翻訳するということ


前回の記事では、私が曲を覚えるというより「身体へ翻訳している」という感覚について書きました。


そして、「模倣すること」と「自分の声で歌うこと」についても。


今回は、それを実際の一曲に当てはめてみます。


題材に選んだのは、Metallicaの『Fuel』。


普段JAZZを本拠地としている私が、なぜあえてこの曲なのか。 理由はいたってシンプル。


自分から一番遠い場所にある曲ほど、

自分が何を考えて歌っているのかを言葉にしやすいからです。



普段歌っているJAZZやボサノバは、もう身体の中に入り込みすぎていて。


呼吸も、音色も、間の取り方も、半ば反射神経で処理している。


だから説明しようとすると、


「なんとなく。」


になってしまうことが多い。



ところが、『Fuel』という作品とのお付き合いはほんの最近で。


この曲を歌おうと思った瞬間、


「どうすれば女性の身体で、この推進力を出せるのか。」


というところから考え始めることになりました。



怒鳴ればいいわけではない。


声を太くすればいいわけでもない。


James Hetfieldという、一人の男性ボーカリストをコピーしたいわけではありません。



私が知りたかったのは、


「この曲が前へ進み続けるエネルギーは、どこから生まれているのか。」


という、1点だけだったかも。



そこから先は、いつものように、


歌を覚える作業ではなく、


作品を分解していく作業になりました。



独特の呼吸、声帯の違い、


倍音の広がり方、リズム感、


子音の扱われ方、アクセント部分の強弱、


言葉が身体へ届く順番。


一つずつ観察し、


自分の身体で再現できる形へ翻訳していく。


今回は、その過程を、


普段はあまり人に話さないところまで、あえて言葉にしてみようと思います。


でもこれはあくまで私がこの曲に対して施したもので、

唯一の正解とかではありません。


歌い手が十人いれば、十通りの翻訳が有り得る。


これは、そのうちの一つ。



私は、普段あまりこういうことは書かないし、


会って聞かれても詳しく答えることはほとんどありませんでした。



しかし、最近になってひと通りの会話の流れを話す機会が...


ブワッと、増えてきました。



歌は結果として聴こえればいい。


料理人がレシピを全部話さないように、


歌い手にも「秘すれば花」で良い部分はあるといえばあるだろうし。



いつも細かく分解して考えているわけでもありません。


実際のステージでは、考えるより先に身体が反応して次のことに移ります。


一度身体へ入ってしまったものは、反射神経のように出てくるから。



それでも今回は、あえて思考の順番まで遡ってみることにした。


一曲くらいは、ここまで分解してもいいだろう、と。



なぜなら、この研究ノートは、


「Metallicaの歌い方講座」


をしたいわけではないんです。


私が実際に行ったのは、


作品が、どのように一人の歌い手の身体へ翻訳されていくのか。


そしてその過程を言語化してみる。



同じ『Fuel』を歌っても、歌い手が違えば、なにもかも違います。

翻訳など「しちめんどくさい」と全くしない人もいるでしょう。



私はJames Hetfieldになりたいわけではないし、

やったとしても声が枯れそうです(^-^;


でも、女性の身体で、女性の声で、

この作品が持っている前に進む力を成立させたい。


そのためには、「似せる」のではなく、


まず「構造」を理解する必要がありました。


私が分析しているのは、声ではありません。


構造です。


(私が注目するのは大体の場合『構造』です。)



呼吸がどこで加速しているのか。


子音が、どのタイミングで前へ飛び出すのか。


どこで重心が前へ移動するのか。


言葉は、どの順番で身体から出てくるのか。


そういうものを一度バラバラに分解にして、


自分の身体で組み直していきます。



だから、この先に出てくる内容も、


「こう歌いましょう。」


という話ではなく、まずは仕組みのことからです。



聴いたそばから、どう感じ、仕組みを理解し、自分の身体に置き換えた。


その記録です。もし誰かが、


「自分も似たようなことを考えていた。」


と思ってくださるなら、


その方とはきっと楽器やジャンルが違っても意気投合しそうな。


逆に、


「何を細かいことを。」


と思われる方がいても、それはそれでOK。


音楽には、いろいろな向き合い方があります。


では、ここから実際に『Fuel』を分解していきます。

1.『Fuel』は怒りの歌ではない


『Fuel』を初めて真剣に分析し始めた頃、最初に思ったこと。


「あれ? この人、怒ってはいないんだ。現状。」


怒りや不満のタネに燃料を撒いて燃やしてこうぜ!!とは言ってる。


曲の勢いは凄まじい。


ギターもドラムも、最初から最後まで前へ前へと突き進んでいきます。


初めて聴いた人なら、


「激しい怒りからくる曲。」


「怒鳴っているような曲。」


そんな印象を持つかもしれません。


でも、何度も繰り返し聴いて、YouTubeの動画を観ていると、少し違って聴こえてきました。


James Hetfieldが歌っているのは直接的な怒りではなく、


**怒りという感情を使って、前へ進むエネルギーを生み出している。



怒りそのものに飲み込まれていたら、声はもっと荒れる。


テンポも走るし、力任せになるようなものだけど違っている。


どれだけ激しく歌っていても、常に音楽全体をコントロールしている。


この曲を「怒りの歌」ではない、


私には、「推進力(前に進むため)」の曲に思えました。



アクセルを踏み込む。


身体が前へ傾く。


景色が後ろへ流れていく。


その止められないエネルギー。


だから、女性がこの曲を歌うときも、


無理に低い声を出そうとはならず、女性のドライバーやっていてるんやし、と、そのままで歌ってもいいんだろうなぁという印象。


Jamesの身体はJamesのもの。


私の身体や声帯は、彼のようにはなれない。


でも、『前へ進む力』なら翻訳できる。そう考えました。



大切なのは、「似せること」ではなく、


作品が持っている本質を、自分の身体で成立させること。



私がこの研究ノートで繰り返し書いている「翻訳」という言葉は、そういう意味なんです。


英語を日本語などに翻訳するときには、ただ単語を置き換えるのではなく、

意味を、別の言語でも同じように伝わる形へ変える必要がある。


歌も同じで、男性の身体で生み出された作品を、女性の身体へ置き換える。


ロックという文化の中で育った表現を、自分の身を通して鳴らしてみる。


James Hetfieldのコピーをしたいわけではなく、


彼が作品の中へ込めた「前へ進む力」を、自分の身体でどう再現できるのか。


そこから、この研究が始まりました。



2.推進力は、身体のどこで生まれるのか


『Fuel』を歌うにあたって、次に考えたのは、


「この前へ進む力は、身体のどこで?」という謎。



最初は、単純に声が太いのと、ちょっと、発音のクセがすごい。


もし太い声だけが理由なら、

同じような声の人は他にもたくさんいるけど、この、クセ。


普通に歌い流してはクセがすっかり取れて、

『Fuel』のあの独特な推進力は出ない。


耳だけではなく身体の動きも観察すると...


呼吸。


胸の使い方。


言葉を出すタイミング。


リズムの重心。


から気づいたことがあります。


この曲は、息の量で押し切っている瞬間より、


息の"圧力”で前へ進んでいるなぁ。



同じ息でも、ふわっと長く吐くのと、


瞬間的に圧縮されて飛び出すのとでは、まったく違う。



『Fuel』では圧縮された息が、

なにかしらのピストンのように言葉を前へ押し出している。


私は女性であり、無理に低いドスの効いた声を出せない。


それなら、


何を変えれば、同じ推進力になるのか。


もう他を当たるというか、そこを考える方が自然。



息の量よりも、スピード感より、


声の大きさよりも、


声が前へ飛び出す瞬間の圧力を意識する。 そうなると、身体の中で見える景色が変わってきました。


もちろん、これはJames Hetfield本人は、 ただ自然に歌っているだけかもしれない。 そんな意識などサラサラないかもしれません。


でも、私の身体で歌うには?



最初から、「どう歌っているか。」


ではなく、「なぜ、その音が生まれるのか。」


を、自分なりに考え続けていく。


それが、私にとっての研究です。


ここから先はさらに細かく、


声帯。


子音。


リズム。


その一つひとつが、どう『推進力』に繋がるのかを見ていくことにします。


3.声の太さをコピーしない


『Fuel』を歌おうとして、やらないと決めたことNo.1。


James Hetfieldと同じ声を出そうとすることです。


そもそも身体が違うし💦


性別も違えば、声帯の長さや厚み、声道の形、骨格も違う。


ましてや私は、普段なら高いところではかなり軽い声も使います。


そんな私が、


「Metallicaだから、低く、太く、男らしく。」


と形だけ寄せようとすると、たぶん途中で苦しくなる。


そして何より、カッコ悪い。


私が欲しいのはJamesの「声」ではなく、


Jamesの声によって起きている現象です。


前へ進むあの、トルクに合わせる感じ。


重量感。


言葉が身体から飛び出す瞬間の圧。


あれだけ強い音の中にいても、ボーカルが埋もれず存在していること。



ならば、その現象を私の身体で起こせばいい。


と、考える。


普段の私でも、曲によって声の厚みをかなり変えています。


息を多めに混ぜることもあれば、輪郭をはっきり出すこともある。


高い場所へ軽く抜いていくこともあれば、身体の下の方に重心を置くこともあります。



『Fuel』では、いつもの高音へ抜けていく感覚をそのまま使うのではなく、声の芯をなるべく残したまま前へ運びたい。


ただし、喉で無理に太くするのではない。


出来るとしても、どこまで残すか。

それは自分の身体との相談になります。


声を大きくしようとして首や喉まで固めてしまうと、

私の場合はむしろ動けなくなる。


アクセルを踏みたいのに、同時にブレーキを踏んでいるような。

こっちは一生懸命でも声が、前に、出ない(^-^;


段々、力を増やすことではなく、必要な場所へ力を集めること。


とにかくかき集める。後のことはもう後で。


息の圧を作るけれどもダダ洩れさせず。


声には芯を残す。


でも、喉だけで抱え込まず、


次の言葉へすぐ移動できるよう連結もしておく。



『Fuel』は、最初の掛け声のところだけキマっていればOKな曲ではなく、


次から次へと言葉を、圧と共に置いていく。 イメージ的には、どこかの工場で、


ベルトコンベヤーに乗って一定のリズムで流れてくる言葉たちを、自分の手前にあるプレス機で圧縮して次に流していく作業の連続です。


一音ごとに全力投球していたら間に合わない。


野球でいうなら、毎度「人生最後の一球」みたいに投げていたら、

試合にならないやつです(^-^;


一発の豪速球より、


この曲が終わるまで推進力を保ち続けられる身体。


そう考えると、「太い声を出さなければ」という発想はそこまで重要ではなくなりました。



低さも同じようなことで。


原曲の低い響きそのものを再現することより、私の声域の中で、どこに重心を置けばこの曲の重量感が失われないのか。そこを探します。


この感覚は、英語を日本語へ翻訳するときにも似ています。


一つひとつの単語をそのまま置き換えたら、意味は合っていても、妙な日本語になることがあります。


大事なのは、


「この人は、この言葉で何を伝えようとしたのか。」


そこを失わないこと。



Jamesの低さを、そのまま私の低さへ置き換えるのではない。


Jamesの太さを、私なりの太さへ置き換えるのでもない。


その声によって作品の中で何が起きているのかを見つけて、それを自分の身体で起こす。


それが、私の考える「翻訳」です。



面白いことに、


声そのものを追いかけるのをやめると、今度は「言葉」の方が気になってくる。


なぜ、こんなに一語一語が前へ飛んでくるんだろう。


なぜ、同じ英語でも、これほどエンジンのように聞こえるんだろう。


そこで次に注目したのが、


子音です。


4.子音はアクセルになる


声の太さを追いかけるのをやめると、次に気になったのが「言葉」。


なぜ、この曲の英語はこんなに前へ飛んでくるんだろう。


同じ英語の歌でも、柔らかく流れる曲はいくらでもあります。


ところが『Fuel』では、言葉そのものがエンジンの一部になっているようです。


そこで、歌詞の「意味」ではなく、「音」を聴くようになり、


特に気になったのが、子音です。


F、G、K、T、D、M。


唇や舌や歯、口の中のいろいろな場所を使って、息の流れを一瞬止めたり、狭めたり、摩擦させたりする音が次々と出てきます。


男性の声優さんが悪役を怪演するときみたいにユニークなのが、


息を出すことと、止めることがセットになっている


ということでした。


前の章で、私は『Fuel』の推進力を「息の量」より「圧力」として捉えていると書きました。その圧力をどうやって音楽へ変えるのか。


ずっと息を出しっぱなしにしていたら、圧は逃げていくので、


一度せき止める→そして放す→また止める→また放す。


この小さな繰り返しが、言葉の中で起きている。


私の感覚では、


**アクセルを踏んでは、一瞬だけブレーキを掛け、またアクセルを踏む。**


そんな動きに近いです。


ずっとアクセル全開には出来ない。


むしろ、一瞬のブレーキがあるから、その次の加速が強く感じられる。


これはでもアレだ、AT免許用の比喩。


まだ簡単で雑な説明かも。

だって厳密には止まったりブレーキしていない。



MT車のギアチェンジに似ているところがあって、


アクセルを踏み続けて、ただ回転数を上げれば速くなるわけではなく、


一瞬アクセルを戻し、クラッチを切って、次のギアへ入れる。


その瞬間だけ見れば、駆動力はいったん途切れる。

でも、それは止まるためではなく次の加速へつなぐための、一瞬の切断です。


クラッチをつないで再びアクセルを踏むと、車は次のギアでまた前へ出る。


『Fuel』の子音にも、それと似た感覚のところがあります。


息を出しっぱなしにするのではなく、


止める(というよりクラッチ)→放す→また止めて(クラッチ)→また放す...ような。


ずっとアクセル全開で引っ張るのではなく、ほんの一瞬だけ駆動を切ることで、次の加速を作っていく。


子音を「ブレーキ」と考えるより、声のギアを次々とつないでいくクラッチのようなもの


として捉えている瞬間もあります。



私はMT免許持ってるんで(滅多に運転しませんが)


MT車でカーブを曲がるときもね。

実際、2番の歌詞、中ほどに「Take the corner…」と出てきます。


コーナーを曲がってる。※そしてクラッシュに巻き込まれる。


このときなんかは特にセワシナイ動き(子音の動き)。


直線をアクセル全開で走ってきて、その勢いのままハンドルを切らず、


カーブの手前で一度アクセルを戻す。


必要ならブレーキを踏み、クラッチを切ってシフトダウンする。 (カーブの手前で3速、場合によっては2速へ落とす。)


車の姿勢を整えて、曲がる。


そして出口が見えたところでクラッチをつなぎ、またアクセルを入れていく。


一瞬、前へ進む力を弱めているように見えても、次の方向へ、もっときれいに加速する。


息をずっと出しっぱなしにするのではなく、


一瞬せき止める(クラッチ)→方向を変える→そして放す。


その小さな「溜め」があるから、次の母音がまた前へ飛び出していく。

子音で一瞬せき止める→

(推進力がなくなったわけではなく→)

次の母音が強く飛び出す ずっとアクセル全開というより、曲がるたびに細かくギアと重心を合わせながら、それでも速度を殺さず走り続けている。


さらに細かく言うなら、破裂音は「クラッチ」そのものというより、


クラッチを切る → ギアを入れる → つなぐ


という一連の動作に近い。


そして呼吸圧がエンジン。


子音がクラッチやシフト操作。


母音へ入った瞬間が再加速。


リズムが道路。 速い人=アクセルを踏みっぱなしの人、ではないんです。

ずっとアクセル全開で直進している曲として捉える方が不自然。

上手いドライバーほど、カーブへ入る前から出口を見ている。



加速する→コーナーが来る→一瞬、力を逃がす→重心を移して向きを変える→そして、出口へ向けてまた踏み込む。


止まっている瞬間などどこにもなく、減速さえ、次の加速のために使っている。


私が『Fuel』の歌詞に出てくる言葉も、

止めるための子音ではなく、次の音へ曲がるための子音。


ブレーキというより、 音で小さなドリフトを繰り返している感覚を持っておいた方が建設的。


一音ずつ処理しているというより、次の着地点を身体が先に知っているから、現在の音をどう処理するかが決まる。


「曲の中を歩いている」「ロードマップがある」からこそ、なんでしょう。



これが、『Fuel』の言葉が前へ飛んでくる理由の一つではないか。


例えば、タイトルのFuel


最初の F は、息をそのまま声にする音ではなく、一度、歯と唇の間に息を通して摩擦を作る。


そこから母音へ移っていく。この「引っ掛かり」。


このFuelを発音するだけでも日本語的に「フューエル」と言うより、


Fの瞬間に身体の中で圧が集まり、そこから音が放たれる感覚を作った方が、曲の推進力に近づきます。


KやTのような音ならまた違って、もっと瞬間的。


息の流れを一度せき止めて、


「パッ」と放す。小さな爆発のように感じられます。


そして、この小さな爆発が何度も続く。


言葉が、ただ歌詞として乗っているのではなく、


リズム楽器の一部になっている。とてもパーカッシヴ。


ここまで来ると、子音は「発音」の問題ではなく、


英語の響きがキレイかどうかをとび越えて、


子音を、音楽を前へ動かす装置として使う。に等しいです。



これは、James以外の男性モノ作品でも応用可能で、

女性の身体へ翻訳するときにも助けになります。


Jamesのような重量感のある声そのものを持っていなくても、言葉のアタックは作れる。


声量だけでギターやドラムに対抗しなくても、


子音の立ち上がりをはっきりさせれば、声の輪郭は前へ出てくる。


つまり、「もっと大きく」ではなく、


「もっと速く」「もっと鋭く」


という選択肢が出てきます。



ただ、どれもこれも子音を強くすればいいわけでもなくて、


全部を強調すると、今度は言葉がカクカクしてしまう。


一音一音が目立ちすぎて、曲の流れが止まる。



どこで溜めて、どこで放すのか。


どこはそのまま流すのか。その配分が必要で。


結局、私が見ているのは「正しい発音」だけではありません。


その音が、作品の中で何をしているのかに興味を持っている。



そして、子音を細かく聴き始めると、もう一つ面白いことがあって。


自分も歌いながら同じように強い言葉を並べているのに、 Jamesの歌は妙に前のめりに聞こえる。


単純にテンポより早く歌っているわけではない。


むしろ、バンド全体の巨大なグルーヴの中に、きっちり収まっています。


そしたらこの「前へ倒れそうなのに倒れない」感じは何なのか。


次に私が気になったのは、


リズムの重心でした。

5.前へ倒れそうで、倒れない


子音を細かく聴いていくと、次に気になったのがリズム。


『Fuel』は、とにかく前へ進みたがる曲だけど、 ギリギリのところで踏みとどまっています。


単純に「テンポが速い曲」とは違って、面白いのは、


身体はずっと前へ倒れたがっているのに、音楽そのものは簡単には倒れないこと。


前へ。


前へ。


もっと前へ。


そんな力がずっと働いている。


でも、バンド全体がその勢いに飲み込まれて走ってしまうわけではなく、


巨大な何かが、ギリギリのところで身体をつかまえている。



この曲を歌うときに必要なのは、単純にテンポへ追いつくことではなく、ましてや、


「速いから、早く歌わなきゃ」でもない。


それをやると急に曲が軽くなってしまうだろうなぁ。


私の中では、速度よりトルク。


という言葉の方が近いです。



車でも、スピードメーターの数字が大きければ、必ずしも「力強く走っている」と感じるわけではないし、低いところからグッと押し出されるような力。


アクセルを踏んだ瞬間に、身体ごと前へ持っていかれる感じ。


そしてJamesの歌も、その巨大な推進力の上にただ乗っかっているわけではなく、言葉を少し前へ投げる。


次の瞬間にはバンドへ戻る。


また前へ仕掛ける。


引っ掛かる。


抜ける。


そんな細かな押し引きが続いているように聞こえます。



前へ行きたい。


でも、行きすぎない。


このギリギリのところが面白い。



私としても、全部の言葉を同じ場所へ置こうとはならない。


少し先へ投げた方が気持ちいいところ。


リズム隊の中へグッと沈み込んだ方がいいところ。


子音だけ先に飛ばして、母音は後から身体ごと乗せたいところ。


そういう違いを探しています。


これも、先ほど書いた車の話と少し似ていて。


コーナーを曲がるときに、車は単純に前だけを向いているわけではない。


車体の向き。


進んでいる方向。


タイヤが路面をつかんでいる場所。


それぞれが一瞬ずつズレながら、それでも車全体としては次の出口へ向かっている。



歌にもそんなふうに感じられることがあります。


声が一瞬だけ前へ出る。


身体はまだ後ろにいる。


次の瞬間には追いつく。


また少しズレて… そして戻る。


その小さなズレがあるから、グルーヴが生まれる。


全部を拍の真ん中へ綺麗に並べたら、間違ってはいない。


でも、『Fuel』では、それだけでは何かが足りない。


私が欲しいのは、


正しい場所へ音符を置くことだけではなく、その音がどちらへ進みたがっているのか。


という感覚を掴みにいってる、ということです。


JAZZやFUNKを歌うときにも、ずっと気にしていることです。


譜面上では同じ八分音符でも、


前へ行きたい八分音符。


後ろへ残りたい八分音符。


次の音を呼び込む八分音符。


そこで一度踏ん張る八分音符。


私の身体の中では、全部少しずつ違います。

なんだったら色も、違って見える。


音符には、方向があると思っている。


だから『Fuel』を歌うときも、


「ここは八分音符」


「ここは裏拍」


と頭の中で数えながら歌っているところはなく、


身体の中にあるエンジンが、


ここで踏む→そして抜く→次曲がる→ここでまた踏み込む。


と反応していく。


その結果として、リズムが出てくる。


ここまで身体に入ってくると誰ももう、


「James Hetfieldみたいに歌おう」とは、ほとんど考えないでしょう。


作品の構造だけを借りて、自分の身体で走り始めているのだから。


そして、ここまで来たところで、もう一つ大きな課題が見えてきました。


「私は、Jamesの身体で成立しているものを、


私の身体を使ってどこまで変えていいのか。」


コピーしすぎれば、ただの物真似になる。


離れすぎれば、『Fuel』ではなくなるし。


その間のどこに、自分の歌を置くのか次に考えたのは、


「コピーすること」と「翻訳すること」の違い


でした。

6.コピーではなく、翻訳する


ここまで『Fuel』を細かく分解してきました。


呼吸。


声の厚み。


子音。


リズム。


重心。


前へ進む力。


こうして一つずつ取り出していくと、逆に一つの疑問が出てきます。


原曲に忠実に歌う、とは何だろう。


音程を同じにすることなのか。


リズムを同じにすることなのか。


発音を近づけることなのか。


James Hetfieldの声色や身体の使い方まで、できる限り再現することなのか。



大前提、原曲を知るためにはコピーする作業も必要です。


私も最初は何度も何度も、かなり細かく聴きます。


どこで息を吸っているのか。


どの子音が強いのか。


どこで声が少し荒れるのか。


どこで言葉を前へ投げているのか。


一度は、なるべく同じようにやってみる。


その人がなぜそうしているのかを知るには、自分の身体で再現してみるのが一番早いからです。


でも、そこで終わってしまったら、私はずっとJamesの後ろを歩くことになります。


私が歌いたいのは、


「James Hetfieldの歌い方」


ではなく、『Fuel』という作品そのもの。


ここは、私の中ではかなり大きな違いです。



私はJAZZを本拠地として長く歌ってきたこともあり、同じ曲を違う人がまったく違う形で歌うことに、あまり抵抗がありません。


むしろ、それが普通です。


Ella Fitzgeraldが歌えばEllaの曲になる。


Sarah Vaughanが歌えばSarahの景色になる。


Billie Holidayが歌えば、同じ歌詞なのにまったく違う人生が聞こえてくる。


それでも、作品そのものが消えてしまうわけではない。


歌い手が変わることで、作品の別の面が見えてくる。


私は、その感覚を昔から大事にしています。 「原曲を歌っている御本家より、友達の○○ちゃんが歌うほうが、ええわぁ。」みたいなことから、「やっぱ玉置浩二スゲぇな」とか。


わざわざカバーやトリビュートのアルバムを買ってでも、原曲の人が歌っているより愛聴している歌い手さんの作品が沢山あります。


『Fuel』でも、どこまで原曲に近づけるかではなく、


この作品の何を残せば、『Fuel』であり続けるのか。**



私が残したいと思ったのは、


前へ進み続ける推進力。


身体の中で燃えているような圧。


言葉がリズム楽器のように飛び出してくる感じ。


前へ倒れそうなのに、倒れないグルーヴ。



そして、少し危険なくらいの高揚感。



そこが残っているなら、声そのものは私の声でいい。


身体の使い方も私のものでいい。


むしろ、そうでなければ私が歌う意味もないようなもので(^-^;



これは、言葉の翻訳にも少し似ています。


英語を日本語へ訳すとき、一つひとつの単語を辞書通りに置き換えれば、原文と同じになるという一筋縄ではいかないのです。


言葉の裏にある温度。


距離感。


ときにユーモア。


そして怒り。


その人が、その言葉を選んだ理由。


言外に語られているような伏線とか、そういうものまで含めて別の言語へ渡さなければ、意味は合っているのに何も伝わらない文章になることがあります。


歌も同じで、


Jamesの声を私の声へ置き換えるのではない。


Jamesの身体で起きていることを、そのまま私の身体へコピーするのでもない。


作品の中で起きていることを、一度受け取って、自分という別の言語へ訳し直す。


だから「翻訳」という言葉が、私には一番しっくりきます。


そして、この翻訳には正解が一つしかないわけではありません。


別の女性が『Fuel』を歌えば、また違う翻訳になるでしょう。


男性でも、Jamesとはまったく違う身体や人生を持つ人なら、別の『Fuel』になる。


それでいい。


ただし、


「私はこう歌いたいから。」


だけで原曲から離れるのとも、少し違います。


自分らしく歌うことと、作品を好き勝手に扱うことは、私の中では同じではありません。


まず作品を見る。


何が書かれているのか。


どんなリズムで動いているのか。


なぜこの音なのか。


なぜこの言葉なのか。


この作品は、どちらへ進みたがっているのか。


そこをできるだけ観察する。


そのうえで、


「私の身体なら、どうする?」


と考える。


順番としては、いつも作品が先です。



「翻訳」という言葉について、もう少し考えてみます。


私がここで言う翻訳は、


**自分の第一言語ではないものを、


自分の第一言語で表現できる状態にすること**


に近いです。


James Hetfieldの歌は、

James Hetfieldという身体を第一言語として出来ている。


声帯も違う。


身体の大きさも違う。


育ってきた音楽も違う。


英語を母語として言葉を発する感覚も、私とは違う。


その人の人生を通って出てきた癖まで含めれば、

完全に同じものを再現することなんて、そもそも出来ません。


だから私は、


**Jamesの身体で語られている『Fuel』を、

自分の身体という第一言語へ訳している。**


そう考えると、「翻訳」という言葉がしっくりきます。


ただし、作品との関係そのものは、もっと事務的です。


前任者から仕事を引き継ぐ感じ(笑)。


「これ、こういう目的で、


こういう仕様になっています。


ここ大事だから。あとはよろしく。」


と渡される。


私は中身を確認する。


なるほど。


ここを取ったら動かなくなるのね。


ここは前任者のやり方だから、私は変えても大丈夫。


ここは仕様そのものだから残した方がいい。


そうやって理解したあと、


「了解。じゃあ、ここからは私の環境で動かします。」


となる。つまり、


作品との関係は「引き継ぎ」。


身体で行っていることは「翻訳」。


そんな感じ、二段構えなのかも。



私の場合、自分を表現するために積極的に、自ら楽曲を選ぶことが少ないんです。


ここ11年ほど子育てのかたわらで細々歌い始めて、他の歌い手さんを観察してい


歌詞の世界に共感して、「この曲はまさに、私のための歌や✨」と惚れ込んでLIVEで披露しようとすることも、ほとんどないんです。(記憶にないなぁ。)

どの歌い手さんも作品を大切にして歌っているけれど、


「作品を大切にしているかどうか」の順番の都合上、自分というものが最後のほうになります。


バンド内で課題として取り組むことになったときに、

最初に何を主語にするかの違いがあるように思います。


「この曲は、私の声に合うだろうか。」


「私だったら、この曲をどう歌おう?」


「私なら、ここをどう表現しよう?」


「どうすれば私らしくなるだろう。」


これらも、歌うためには必要な問いです。


でも私は、その前に一度、自分を登場させない時間がしばらくあります。


この曲は、なぜこうなっているんだろう。


なぜ、この言葉なの?


なぜ、ここでこんな音が鳴るんだ?


なぜ、身体が前へ持っていかれるの💦


この曲から何を取り除いたら、この曲ではなくなるんだろう。


という具合にまず、作品側の事情を考える。


極端に言えば、この段階では、



私が歌いやすいかどうかなんて、どうでもいい。



私に似合うかどうかも、一旦、脇に置く。


私らしく聞こえるかどうかも、まだ考えない。


それよりもまず、

作品が何をしようとしているのかを、先に知りたい。


それらにひと通り触れてやっと、


「これを私の身体でどうやったら成立させられるだろう。」


と考え始めます。


ここで、ようやく『私』が登場します。


だから私の場合、


「私がこの曲をどう表現するか」より先に、


「この曲は何を表現しようとしているのか」がある。


この順番は、かなり大切にしていて。おそらく子供の頃からのクセです。



あくまで私の見立てでは、


自分を後回しにして作品へ入っていった方が、最後にはかえって自分が残ってしまいます。


声が違うのだから。骨格的にも肉付きも違うと響き方が変わってくる。


生きてきた背景も違う。聴いてきた音楽もおそらく違う。



『FUEL』という作品でも、

どれだけ作品側へ寄っていっても、

James Hetfieldにはなれない。


最後まで消せなかったものが残る。


それを私は、『個性』と呼んでいます。



個性や独自性というのは、最初から作品に振りかける調味料ではなく、


作品を理解しようと自分を一度引っ込めたあと、


それでも消えずに残ってしまったもの。


そこからが、私にとっての自己表現というフィールドです。



「これを歌いたい」と、私が最初から思ったか思わなかったかは置いておいて、


取り組むべきか考える中で、一旦、曲の中へ自分が入り込んでいく。


そこにある世界を、自分の身体を使ってもう一度立ち上げたい。


それが結果として、


「高城が歌うと、こうなる」になればいい。



もし、個性やオリジナリティーが生まれるとしたら、この辺りから。


この道筋を通って出来た土台の上に、自然に加わってくる。



作品の世界観へかなり深く潜ったあと、


どうしても消えずに残ってしまったものが、その人の個性では?


この辺りでやっと個性の話になってきます。



そして、ここまで長々と言葉にしておいて何なのですが、


実際に歌っている最中、私自身はここまでのいろんな道のりや気づきなどを1つ1つ考えているわけもなく、むしろ逆の現象が起きていて。



つまり、ここまで考えるのは、


考えなくても身体が動くところまで持っていくため。



1度理解したものが身体へ入ってしまえば、あとはかなり早い。


そこから先のことは、頭で命令して歌うというより、身体が勝手に反応する領域です。



では、その「身体に入る」とは、私の言葉ではどうなっているのか。


次は、そこまで遡ってみたいと思います。


7.身体へ入ったら、考えなくなる


ここまで『Fuel』について、やれ呼吸が、やれ子音が、重心が、トルクが・・・


挙げ句の果てにはドリフトまで出てきましたが(笑)。



こんなに長々と書いておいて何なのですが、


普段、私はこんなことを全部考えながら歌っているわけではありません。



むしろ逆で、なるべく早く、考えなくてもいい状態にしてしまいたい。


理解したことを、出来るだけ早い段階で身体へ置き換える。


そこから先は、大脳から、


「はい、次は子音を強くしてこ~!」


「ここで重心を前ね――✨」


「ここは少し息の圧を上げてこっか~」


なんて指令を出しているわけではなく、音が来たら身体が反応する。


言葉が来たら、その形になる。


曲の進行が曲がっていくなら、こちらも曲がる。


そんな状態にしておきたい。


もちろん、身体がまだ覚えきっていないところは反復練習。


野球のピッチャーだって、投球フォームを理解したからといって、いきなり毎回同じ場所へ投げられるわけではない。


何度も投げることで、精度は上がっていく。 歌も同じ。でも、一曲一曲について、ここまでの思考を毎回ゼロから長時間かけて行っているわけではありません。


かなりの部分で反射の回路が出来ています。


先日、生演奏でカラオケが楽しめるイベントで、主人が米津玄師さんの『海と山椒魚』を歌いたいと言い出しました。


出掛ける前に急に言い出して。


私は、その曲をほとんど知りませんでした。


どこかのBGMで耳にしたことくらいはあるのかもしれない。


でも、「この曲知ってる?」と聞かれたら、


「知らない。」と答える程度です。


車の中で原曲を流しながら目的地へ向かいました。


一回目。夫が曲に合わせて歌っています。


全体的に現代風にPOPだが、やっている世界観は鳥羽一郎さんや北島三郎さんの名曲を思わせるような「The 海の男」仕立てな曲調。


主人は歌の人ではないので、まだ音を取りきれていないところもありましたが、本人が楽しく歌うならそれでいいので、私は特に何も言わずに聴いていました。


一回目の2番というのは、1番とほとんど変わらず繰り返されることが多い。


しかしフェイクが入って高音へ盛り上がっていったりするので注意深く聞く。


サビとエンディングの畳みかけ。これは繰り返しだろうと隣で私も歌い始めました。


歌詞は分からないけれど聴いた言葉の雰囲気で口ずさんでいく。


そして繰り返し聞く二回目。


今度は私も一緒に歌ってみました。歌詞もよく聞き取れないところがあるまま。


歌詞カードを見ないで全部把握できる曲は結構少ない。


でも、先ほど一回聴いた歌い方の癖や、フレーズの動き、声のニュアンスを頼りに、そのままあとを追っていく。 込み入ったところはヒアリング出来ないけれど、鬱病を患っている知り合いに向かって自分なりの想いを吐いている曲だと分かる。


アウトロの繰り返し付近に、「ひとまとまり」を3~4回繰り返す部分があるのですが、


必ず最後の方に一度だけ声がヒーカップのように引っくり返りそうな箇所がある。


ここは米津さん、こだわったんだろうなぁと伝わってくる。


にぎやかな男節の曲に、歌詞のテーマが重くのしかかるように低め安定の歌唱が続く、時折り高めにもっていくとき、叫びを伴ったロングトーン。


そして、最後の畳みかけには「1~2回トライしてちょっと気持ち上がった?」と思わせるところ、錯覚させる箇所を作っている。 が、上がり切らずにまた落ちるしかない物語の主人公。


高まった気持ちのはけ口がないままではなく、やろうと思ったらできた、なのに・・・という切なさまで付いてくるよう。

そこも再現して、感想の合間に、


「ここがあるから、ずっと低めで安寧として聞こえる曲の中に、一瞬ダイナミクスが出るんちゃう?」


などと解説まで始める。 米津さんの歌の特徴を捉えた反復で、返し続ける。


そして、2回目を歌い終わってからの私が、


「イケボーやろ?」と冗談で言ってみたら・・・


主人は運転席で、全力で落ち込んでいました(^-^;


これが、わが家では普通の会話です。



お付き合いから結婚して5年のあいだに、私が練習で苦労している風景をあまり見せたことがない。


特徴的な歌い手さんの曲を1度でも聞いたら、どんどんメロディーが無意識にでも頭に残っていく。 「えっ、知らん曲て言うてたやん?」


「うん。聞きながら覚えた」


バンドで取り組む予定の新曲も、トリッキーなモノでなければ2~3回聴いてリハに参加する嫁。 「アンタ、一体いつ練習してんの??」ともう聞かれなくなりました。あっという間に仕上げの調整に向かっている。


 

一度聴けば何でも完璧に再現できる、という話ではなく、


具体的な歌詞など知らない、細かい音程を取りこぼすこともある。


聴き直したら、「あ、ここ違った。」


なんていくらでもあります。


ただ、最初に曲を受け取るとき、私は音符を一個ずつ記憶しているわけではない。


まず、「その曲がどう動いているのか」を、身体ごと受け取っているのだと自分では思っています。


だから、ある程度のところまでは早い。


考えてみれば、これは音楽に限ったことではなく、昔からそうでした。


幼少の頃から、歌でも道でも、一度頭の中で景色がつながると、あまり迷わなくなります。



小学2年生の頃、母の姉が住んでいた名古屋へ遊びに行ったことがあります。


母やオバたちと、妹や従弟たちとゾロゾロ動物園へ向かう途中、電球を買うため、町の小さな電気屋さんへ立ち寄りました。


そこに、ドラえもんの小さなおもちゃがいくつか飾ってありました。


動物園から帰り、子どもたちだけで団地の下で遊んでいると、1つ年下の従弟が、


「あのドラえもんのおもちゃが欲しかった。」


と言い出しました。


私は、「連れて行ってあげるよ」と。


バスにも乗らず、片道20~30分ほどあった入り組んだ道を、従弟を連れて歩いていきました。


そして電気屋さんへ到着。


無事にドラえもんをGETして、また歩いて帰ってきました。


当然、帰ったら従弟はおばさんに、どエラい怒られていました💦 夕飯前にこつ然と二人だけ消えたわけで。母と伯母は、


「あんな遠いところまで?」


「あの入り組んだ道を?」


「30分くらいかかるで?」


と、二人で不思議そうにしていました。


しかしうちの母としては、まあまあ、そういうことも日常。


「知らーーん。香織が連れて行ってしもたんやから。」

くらいのものです。



私はまだ小さかったわけで、


道順を覚えていたわけではなかった。


何本目を右へ曲がり→次の信号を左へ→そこから何メートル直進する。


というような地図のナビアプリみたいには覚えていなくて。


「そうそうここ、さっき通った。」


「この建物があった。」


「この角を曲がると、次はあの景色になるよね。」


目の前に現れる景色と、頭の中に残っている景色を一致させながら進んでいただけです。


頭の中にある建物同士の残像だけをずっと覚えていることもあって、 30年ぶりに訪れた場所でも、多少新しい街並みに変わっていても面影が残っていると一致させることが出来ます。


そう考えると、今、曲を覚えるときにやっていることも同じことで。


メロディーを、「この音の次は、この音。」


と順番に暗記するより、


「ここからこう進む。」


「ここで景色が変わり始めて…」


「この先にあれが待っている。」


という連続した地形として受け取る。


自分の感覚としては、

曲を覚えているというより、一度通った道をもう一度歩いている


のかもしれません。


そして、知らない曲を短時間で歌わなければならないときには、

その特徴がもっと分かりやすく出ます。



十年ほど前、あるJAZZ SESSIONで、参加していたベーシストさんから突然、


「高城さん、Diana Krallの『Temptation』って知ってる?」


と聞かれたことがあります。


私にとっては、その当時はよく知らない曲でした。


『翌月のライブでボーカルさんが歌う予定だけれど、自分も知らない曲なので、どうしても歌入りで一度練習しておきたいんよ😿』


そんな話でした。


「いいですよ。ちょっと聴いてきます。」


と答えて、休憩中に外へ出ました。


スマホで曲を聴いて、歌詞を調べる。


お店でもらった紙に歌詞を書き写す。


その上に、メロディーの抑揚を心電図みたいな線で書き込んでいく。


ここは上がって、ここは下がって、


ここは結構伸ばして、ここは伸ばさなずストップ。


矢印など自分にしか分からない記号を書き込んで、


AABC。


ソロ。


歌戻り。


エンディング。


と、曲全体の地図を作る。


そして店へ戻り、休憩が終わってすぐそのベーシストさんの順番が来たので、一旦頭に入れたまま、書き込んだメモを参考に雰囲気で歌いました。 短期間で完璧にとはならないし、多少ニュアンスを間違っていたとしてもコード進行には沿っている。


早く覚えられることが良いと言っているわけではなく、


『私が曲を覚えるときに、何を覚えているのか』についてよく分かる出来事なので、思い出していました。



人にはそれぞれ長所と短所があり、私の場合はこういった、


「歌ってくれる人がいないから、なんとか練習相手してほしい。」


という現場では重宝されるということなんです。


これまでの説明で『原曲をよく聴いて身体に落とし込む作業』は大事にするけれど、半面、


キチキチッと毎回、「原曲の通りに歌う」のは性に合わないです。


いろんな歌や音楽に関わる技能はありますが、 私からすると歌詞をすぐ覚える人はうらやましいです。 いつ聴いてもピッチや発音の丁寧さが安定している、再現性がある方も。



私の新しい曲の特徴を覚えやすいなんてのは、雑な話でもあって、


本当はちゃんと歌い込んで、納得いくまで練習したほうが良いです。



図書館で読んだJAZZ系の本にありましたが、


ビリー・ホリデイなどが活躍したときには


「譜面(メロディーの載っているもの)が用意されていない」、


あるいはボーカルさんによっては「譜面が読めない」から、


隣町で別の歌い手さんが歌っているのを聞いて覚えて、


うろ覚えでもそれも味として、そのままレコーディングしていたこともあると、


何かで読んだことがあります。



譜面のメロディーも知っている、歌おうと思えばそのまま歌える。


クラシックの歌い手ではないのだから、譜面に忠実に歌う必要はなく、


「譜面通りではなくても、あの人が歌っているニュアンスが大好き」、という事も往々にして起こります。 そもそも論、歌と音楽、そして言葉の起源までさかのぼってみても、 キチキチやることが目的ではなかったはずです。

身近な人同士で、言葉にならない赤ちゃんの「喃語(だーだーやアー、ウー)」のようなもので音を使って会話してきたのだから。 ヒトという種族が太古の昔からやってきた音楽との関わり方を考えてみてもそう言えるし、


特に音楽の教育を受けていない人でも、 「この人は上手い」 「この人はアレだな・・・💦」 と聞き分ける力が備わっています。


そして『キッチリすること=美徳、正義』というのも、私は逆さに見ています。



人間は発達の段階で音や歌がまずあって、


それからだいぶあとになって言葉が誕生していったという説が有力だとすると、

みんなで協力して1つのことを成し遂げるために作られたいろんなルールを、


理屈や理論という分かりやすい体系にまとめていった。 そういう高度なことは、常に後からきたものだと私は考えます。



音楽の世界でも、オーケストラなどでみんなが共通のルールを共有した上で演奏する場合。

そんなときには譜面や指揮者を頼りに、キッチリやらないと成立しないでしょう。

ピアノを習っても、余計なことはしないで、


譜面にすべて書かれてあるのだから、譜面の通りに演奏しましょうと言われました。



現代的になり、日本でも義務教育で音楽の基礎的な知識は学べるようになりましたが、 そこまでキッチリする必要のない場合もたくさんあります。


世界中に古くから伝わる民謡とか、人から人へ歌い継がれたもの。


楽譜をいちいち配ってもらわなくても耳から耳へ。


人間が本能的にやってしまえる範囲で、それぞれに音を楽しんできました。


「なにげなく聞いた誰かが歌っている曲が、めっちゃ心に刺さった。」 「私も歌ってみようかな♪」

気づけば、その元の歌が大ヒットしている。それでいいんです。



私がこれまでに言葉にしてきたことも、 本能的なところで受け取って、原始的に反応していることばかり。


感じたものをそのまま、反射神経で返していく。 なのでそんなキチキチしたむずかしい話ではないです。



音符を一個ずつ暗記するのではない。


曲の地形を先に見る。


ここから始まって、


こう進んで、


ここで景色が変わって、


ここで戻って、


ここで終わっていく…。


その地図が出来れば、あとはその中を歩けばいい。


細かな音程や歌詞は、あとから精度を上げていくことができます。


これは、①で書いた、


「曲の中を歩いている」という感覚そのものです。


そして、おそらく長年いろんな音楽を聴いてきたことで、 その地図を作る作業そのものがかなり自動化されています。



JAZZなら、この辺りでこう動く可能性が高い。


FUNKなら、ここはこういう重心になるかもしれない。


ROCKなら、この先にこれくらいの圧が来そうだ。


予想を裏切られることもあります。むしろそこが面白くて。


「え、そっち行くの?」


となった瞬間に地図を書き換える、


そしてまた歩き始める。



私にとって、歌の練習をする作業とは、


何もないところから一音ずつ身体へ入れる作業というより、 最初に出来た地図の解像度を上げていく作業


に近いのかもしれません。


ここまで『Fuel』について言葉にしてきたことも、


普段なら、その多くを短い時間で身体まで処理しています。


言語化の手順を踏まないから。



今回は、いつもなら反射で終わってしまうところを、


「待てよ。私は今、何をした?」


と巻き戻してみた。


そして、なぜそうしたのか?


その前には何を感じたのか?


さらにその判断は、どこから来たんや? 


と、思考の段階まで遡ってみました。


案の定、長くなりましたねww


『Fuel』を覚えるのに、


毎回こんな論文一本分の会議を脳内で開いているわけではないし、

目指しているのは、その逆で、


考えたことを、なるべく早く身体へ渡してしまう。


身体が理解したら、頭から離れてオッケー。


「次はどう歌うんだっけ?」


とかどーでもよく、


その瞬間に鳴っている音を自分自身でも聴いている。



一緒に演奏している人たちが見えてこないと。 想定外のことが起きても、頭の作業台に空きスペースがあります。 こんな例え話が浮かぶのは私が主婦だからなんですが、 頭の中をキッチンに例えると、 まな板の上や調理台の周りに余計なものを一切置かない。


そしてその先は、覚えてきたものを披露する時間ではなく、


その場で音楽を作る現場での作業、となります。


私が曲を早く身体へ入れたい一番の理由は、もしかするとそこなのかもしれません。

そして私は栄養士でもあるので、 給食の大量調理と同じに考えているところがあります。




8.下処理は、下処理の場所で終えておく


ここまで、声帯だの呼吸圧だの、破裂音だの、

アクセルだのブレーキだの、ドリフトだの。


ずいぶん細かく言語化してみました。


そして私は、本番ではほとんど何も考えていません。


考えないために、先に考えておく。


栄養士的に言えば、こういった分析や個人練習は、まだ「下処理」の段階です。


給食調理の現場では、食材を検収し、洗い、皮をむき、切るような下処理をする区域と、その先の調理を行う区域が、衛生管理上きちんと分けられています。


区域が変われば、着るものや履くものも変える。


私にとって、個人練習から他のミュージシャンとの音合わせへ移るときにも、どこかそれに似た境界があります。


下処理の段階では、いくら細かくてもいい。


James Hetfieldの声を何度も聴く。


身体の使い方を見る。


一度、出来るところまでミミッキングして、


何がこの推進力を生んでいるのかを考える。


自分の身体で出来ることと、出来ないことを確かめる。


そして、出来ないなら、


「では私は、何を使えば同じ仕事が出来るのか」で対策して。


そこまでは、徹底的にやっていい。


でも、それはまだ材料の仕込みです。


どの担当楽器のミュージシャンも各々下処理と仕込みをやっている感覚です。



そこから先、他のミュージシャンと音を出してみる。


ギターがどう来るのか。


ベースがどこへ重心を置くのか。


ドラムがどれくらい前へ押してくるのか。


実際に合わせた音を聴いて、


「ここはもう少しこうした方がいい」


「ここは、あえて何もしない方がいい?」


と、より良いものが出来るように調整していく。


私にとってリハーサルや音合わせは、給食作りに例えると、 新しい献立メニューの「試作と仕上げ方を考える時間」に近いです。


給食でも、試作の段階ではうまくいっていたのに、本番になると予定通りにいかないことが結構あります。


野菜に含まれる水分量が思ったより多かったり、逆に少なかったり。


発注していたニンジンが3割ほど足りず、大根に差し替えられて届いたり。


焼き魚やグラタンに火が入りにくく、焼き目がなかなかつかなかったり。


……いろいろありました。


ライブも、たぶん同じです。


リハーサルで、


「これでいこう」


と決めていても、本番では同じことがそのまま起きるとは限りません。


その日の会場の雰囲気。


その日の音響。


その日のテンポ。


メンバーのコンディション。



誰かのちょっとした仕掛け。


いつもより前へ出てくるドラム。


予想外に空間を作ってくるギター。


そして、お客さんの空気。


それぞれが自分の担当するところをきちんと務めながらも、目の前で起きていることを受け取り、その日の料理をその場で完成させていく。


だから私は、個人練習で100%完成した歌を作り、本番でそれをそのまま再生しようというイメージをあまり持ちません。


下処理など準備は、きっちりしておく。


試作をすることも大事。


最後の仕上げは、その日の調理場に残しておく。


考え抜いたものを、最後には考えなくても使えるところまで なるべく身体に入れておく。


そして本番では、調理用エプロンと長靴を『下処理エリア用』から『仕上げ、配膳用』に替える。


モードをすっかり切り替えて。目の前の作業に従事する。



『Fuel』について、ここまで細かくJamesの仕事を追いかけてきたのも、そのためです。


Jamesになるためではなく、


自身の中で思い描いたイメージを追い求めるのではなく。


その作品がどう動いているのかを知り、


担当していることを自分の身体で引き受けられるところまで、


下ごしらえをしておくため。


そこから先は、私一人の仕事ではありません。


各々が下準備した材料を持って、他のミュージシャンの待つ調理場へ行く。


そして本番では、予定通りにいくことも、いかないことも含めて、


その日、その場所でしか出来ない『Fuel』を仕上げる。


そこまでいって、ようやく一皿(1曲)完成です。

 
 
 

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