私の歌は、どこから来たのか
- Keiori Takagi

- 21 時間前
- 読了時間: 20分
――声の模倣、音楽の土台、そして「秘すれば花」
歌い手は、マイクの前に立っている数分間だけを見て判断されがちです。
なんとなく歌っている。
感覚だけで歌っている。
理論は知らない。
譜面は読めない。
若い頃から人前に立って、勢いのままに歌ってきたのだろう。
けれど、歌っている本人にとっては、目の前の一曲だけが歌なのではありません。
子どもの頃に聞いた音。
怖かった先生。
遊びの中で真似した声。
誰かの口ぐせ。
演劇で身についた身体感覚。
言葉にならない違和感。
何十年も観察してきた人間の顔や仕草。
そうしたものが、いつの間にか声の底に沈み、表からは見えない土台になっています。
今回は、私の歌がどこから来たのかを書いてみようと思います。
これは経歴を説明するための文章ではありません。
今、自分が歌うとき、何をしているのか。
なぜ、よく知らない人から歌い方を決められることを嫌うのか。
なぜ、技術をすべて言葉にしようとすると、歌の本質から離れていくように感じるのか。
その源流を、できるだけ正直に辿るための文章です。
◆遠い過去に培った“土台”
――子ども時代の音楽研究所での経験
地味な話をすれば、私がバーで歌い始める遥か昔、子どもの頃に、音大志望生のための厳しい「音楽研究所」に通わされていた時期があります。
妹が小学二年生くらいの頃だったと思います。
練習がしっかりできておらず、何度も詰まると、日本人にしてはラテン系で、目鼻立ちのハッキリした女の先生が、ピアノの蓋をバーンと閉じました。
指を挟まれて、
「痛ーっ!」
と泣き出す妹。
順番待ちの私は、それを近くのソファーで見ながら、怖くて何もできません。
『次は、私がやられる!』
あまりのガチさに、妹は長くは続かず、しばらくして習うのを止めました。
私も止めたかったのですが、親に言いくるめられ、思春期を迎えるまでのあいだ、週に一度、ソルフェージュや楽典、正確な音程とリズムを聴き分ける耳といった、音楽の骨組み、つまり基礎を徹底的に叩き込まれました。
基礎を踏まえていないうちは、
「好きな曲は、弾きたいように家で勝手に弾いたらいいじゃないの」
と、先生に見てもらえたことはありませんでした。
基礎が身体に馴染んでいないあいだは、発表会で最近流行りの曲を歌わせてもらえることもありませんでした。
他のお友だちは楽しそうに、ジブリやディズニー映画の曲をやらせてもらっています。
いいなぁ、と、うらやみました。
自分はというと、先生から毎週出される、
「なんやねんこれ💦」
という、特にタイトルもない、番号で呼ばれる課題曲を、怒られないようにこなすのに必死でした。
先生の指定する教科書以外の曲でお付き合いいただいたのは、小学校の合唱コンクールで歌伴を引き受けてしまったときの曲のみ。
あとはもう、親と先生の望む通り、マシンと化しました。
だから未だに、
「何か弾いてみて」
と言われても、記憶にありません。
あれだけ弾いたはずなのに、心が動いた記憶が少ないのです。
技術として残ったものはあっても、曲との思い出が、あまり残っていない。
これは私にとって、音楽教育の功績であり、同時に傷でもありました。
歌うことについても、小学五年生のときに、
「素養があるから、声楽の道に進んではどうか」
と、先生から母に話があったそうです。
しかし私は、一切興味の持てない楽曲を、歌う機械のようにこなしていくだけのつまらない自分を想像し、
「好かん」
とひと言。
お断りしました。
ピアノは練習すればするほど上達します。
練習は嫌いでしたが、それなりに、一つひとつの動作に打ち込むほど、弾けるようになっていきました。
しかし歌うことについては、練習しているとは本人は思っておらず、子どもの頃からそういう感覚を持っていませんでした。
公園で、目の前にある遊具に向かっていく感じです。
先生が、
「跳び箱を飛んで」
と言うから飛ぶのに等しく、
「ここ歌って」
と言うから歌いました。
「次、この音なに?」
と、先生が私に見えないようにテキトーに鍵盤で弾いたものを、聞こえた通りに、
「ドミソ」
と歌っただけでした。
努力して獲得したというよりも、目の前にある音に反応した。
本人の中では、そのくらい自然なことでした。
それに、クラシックという一つの型にはめられたくありませんでした。
そないにクラシカルな歌い方に憧れてもいなくて。
ここが、好きな人と、そうでもない人との分かれ道だったのだと思います。
妹が地域の合唱団にスカウトされ、練習場所まで送り迎えをしたときに、二十人から三十人ほどでの練習風景を見ることもありました。
そういう歌い方もキレイだけれど、
「なんか違うなぁ」
と感じました。
先生の指導方法にも、
「私は付いていけん💦」
と、求めているものとの違いを感じました。
それもあったのかもしれません。
親や周りがどれだけ喜んだとしても、人のために気が乗らないまま歌うということが、どういうことか。
自分が好きなことまで、周りのためにやり方を固定されるのか。
子どもながらにガンコになり、
「なんか、イヤ」
と飲めませんでした。
歌うことは生活の一部であっても、
「こんなふうに歌え」
と、よく知らない人からコントロールされるのは苦手です。
他のことなら、まあまああり得ても、歌だけはどうにもなりません。
自分でも、
「歌詞に共感していないとムリ」
「納得していない曲は歌えない」
と、制限がかかります。
それは不器用さでもあります。
歌い手として、依頼されたものを何でも器用にこなす人のほうが、仕事の幅は広がるでしょう。
けれど、私の場合、歌の中心に、自分なりの納得が必要なのです。
歌詞の内容であれ、曲の身体性であれ、声の置き場所であれ、どこかに自分が入っていける扉がなければ、声が動きません。
口と喉だけで歌うことはできても、私自身が歌の中へ入っていけないのです。
それでも、独自の目線で音楽について掘り下げながら、歌で自分と誰かが打ち解けたり、周りのごく近しい人同士で盛り上がったり、バカ騒ぎをしたりするための、大事なコミュニケーションツールとして、歌は十分に機能していました。
自分が好きなようにやりたいことは、誰かに強制されたくない。
コントロールも、ジャッジもされたくない。
人それぞれ、何を大事にしているかは違います。
私の場合は歌にこだわらず、もう少し広く世界を捉えて、声にまつわるさまざまな仕事を転々としてきました。
遠回りに見える経験も、すべて声の中に入っています。
◆声の模倣と観察は、「解剖と実践」
――声フェチとしての蓄積
小さな頃、猫が大好きでした。
近所に猫がたくさんいたのですが、どうしても彼らを呼び止めたい。
お友だちと猫の鳴きマネをして、彼らの世界に介入して遊んでいました。
お友だちがマネしても、猫はまったく振り返りません。
でも私がやってみると、
『ビクッ!』
と動きが止まります。
そして周りを注意し始めます。
何度かマネてみると、やっと、私が声を出していることに気づいて目が合います。
そんなふうに、野良猫の動きをしばらく止めることができたなら成功。
もっと近くで見ることができたら大成功。
できなかったら残念。
それだけの遊びです。
けれど今思えば、すでに私は、音の形だけを似せようとしていたのではなかったのだと思います。
その猫が何を警戒し、どんな声なら反応するのか。
音程だけでなく、息の量、距離感、鳴き声の鋭さ、柔らかさ、呼びかけなのか警戒音なのか。
声の向こう側にある「意図」まで含めて、真似しようとしていたのかもしれません。
昔から、周りの大人の口ぐせや動物の鳴き声、ゲームの効果音、テレビの中の人の声の「鳴り」を観察するクセがありました。
身近な人の口調や声色、息の混ぜ方などをマネては、周りを笑かしていました。
好きなアイドルや声優さんになりきるのも、日常の「遊び」でした。
演劇部に所属していたことも大きく、学校の先生の仕草や声を真似しながら、
「身体のどこを鳴らせば、どんな声が出るのか」
「息の圧力で、どうニュアンスが変わるのか」
を、感覚的にチェックしていました。
それは私にとって、単なる物まねやおふざけではありませんでした。
「声という目に見えない楽器」の構造を解剖し、実践するトレーニングそのものだったのです。
声を真似るとき、喉だけを真似ても似ません。
姿勢が違う。
視線が違う。
口の開き方が違う。
身体の重心が違う。
その人が他者に対してどのくらい警戒しているか、自分を大きく見せたいのか、相手に甘えたいのかによっても、声は変わります。
つまり声は、音だけではありません。
身体と感情と、その人が世界に対して取っている態度の合成物です。
だから声の模倣は、人間そのものの観察になります。
声色だけを似せるより、その人がどのような身体で、どのような気持ちで、その言葉を発したのかを再現したほうが、ずっと本人らしくなります。
私はおそらく、子どもの頃から、そんなことばかりをやっていました。
◆歌は「感性」だけではない
――答えは言葉ではなく、声の中にある
歌という分野は、「何を学んできたか」というスペックよりも、「感性」に重きを置かれます。
名の知れた音楽大学で完璧な理論を修めたからといって、人の心を震わせる歌い手になれるとは限りません。
逆に、何の教育も受けていない「野生の歌声」が、聴く者の魂を鷲掴みにすることだってあります。
歌とは、その人の生きてきた道のりと、何を大事にし、どう感じるのかといった、生き方がそのまま声になる世界です。
だからこそ、表面的な基準では測れません。
「歌の道を志すならば、全員がある一定の音楽的教育を受けるべきだ」
とは思いません。
「人による」のです。
基礎が必要ないと言いたいのではありません。
基礎は、あるに越したことはありません。
しかし基礎は、歌の価値を保証する資格証ではありません。
理論は、歌を説明する言葉にはなっても、歌そのものにはなれません。
反対に、理論を知らないように見える人の身体に、長年の経験から得た精密な法則が宿っていることもあります。
正式な名称を知らないだけで、やっていることは高度である場合もあります。
人間は、言葉にできることだけを理解しているわけではありません。
身体は、頭より先に答えを知っていることがあります。
悩ましいのは、
「どうして、そういう歌い方なの?」
と聞かれても、言葉で無理に説明しようとするほど、歌の本質からどんどん離れていく気がすることです。
それで、口を閉ざしてしまいます。
理屈や理論で固められそうになったら、
「もう、ええわ」
と思います。
分かってくれる人とだけ音を重ねられれば、それでいい。
そう割り切ってきた部分もあります。
世のボイトレの先生やYouTubeの先生のように、実演しながらコツを話すこともできます。
しかし、歌という流動的な性質のものを、頭、つまり理性や、筋肉運動として捉えることはできても、そのやり方がすべての人に適応されるかというと、疑問に思います。
楽器なら、
「この音域、この音色」
という、ある程度の境界線があり、分かりやすい。
押さえてしまえば、誰でも同じ音程を鳴らすことができる楽器もあります。
しかし、人間の「声」という楽器のバリエーションは無限にあり、ケースバイケースです。
身体の構造によって、歌えない音域が人によってバラバラなように、誰かが技術的に悩んでいたとしても、学校やYouTubeで大まかなメソッドをなぞったところで、その方の悩みが解決するかどうかは、まったく別の問題なのかもしれません。
舌の形も違う。
顎も違う。
首の長さも、肋骨の広がり方も、声帯の性質も違います。
生まれ育った場所によって、日常的に使ってきた音や言葉のリズムも違います。
さらに、自分の声を出すことへの恐怖や、他者から否定された経験など、心理的な条件も声には絡みます。
同じ言葉で同じ指導を受けても、身体が受け取る意味は一人ひとり違います。
声の指導が難しいのは、声が身体の一部であると同時に、自我の一部でもあるからです。
その上で、自分の身体の一部として馴染んだやり方は、どんどん言葉にしないまま、感覚だけでこなせるようになっていきます。
立ち止まって、
「なぜ?」
を人に説明するには、いろいろな前置きが必要になってきます。
あれもこれもとなると、そこそこ時間もかかります。
なにより、話したとしても、すべてを言うのは控えて、ヒントやコツくらいに留めたい。
私の言う通りにやらなくてもいい。
楽器が違えば、工夫の仕方も変わるはずだから、自分で試すのが一番です。
私自身が、それを痛感しているからなのだと思います。
◆「私はこうだ」と言い切る必要がある
――個性は、曖昧なままでは出てこない
日本の風土には、
「私はこれが好き」
「これは嫌い」
とはっきり主張することを避け、場に馴染むことを良しとする空気があります。
日常を穏やかに送るには、それも大切な知恵です。
けれど、マイクの前に立った瞬間、その「曖昧さ」が弱点になることがあります。
今まで周りに合わせてきたこと。
場に馴染むために個を消してきたこと。
和を保つために、周りの意見へ委ねてきた過去。
そうしたものが、歌う瞬間に降りかかってくることがあります。
いろいろな人の歌を聞く機会がありました。
人によっては、
「本当の自分って?」
と探しながら、セラピーのように歌っているように聞こえることもあります。
「本当の自分は、この作品で歌われるような感じじゃないんですけど、憧れちゃって」
と言いながら歌われる曲もあります。
「○○に似ているでしょ?」
と、和製○○を目指しているシンガーさんもいます。
私は個人的に、自分が尊敬する偉大な歌い手の模倣を究めようとする歌い手さんも大好きです。
本家に迫る、あるいは、ご本人より本人らしいモノマネ職人さんを、私は尊敬しています。
模倣は、必ずしも個性の否定ではありません。
深く模倣しようとすれば、その人が何を聞き取り、何を選び、何を再現できなかったのかが現れます。
精密な模倣の先に、その人自身が姿を現すこともあります。
たまに、もともとの声質が誰かに似ていて、どこかにフワッと面影が浮かぶボーカルさんもいます。
しかし、本家の歌い手さんの痛みのようなものまでは伝わってこない。
この辺りは、歌の本質との関係もあって、私も原曲の歌い手さんに寄せることがあるので、悩ましいところです。
声質が似ていること。
発音や節回しを似せること。
その人が曲の中で背負っていたものを、自分なりに引き受けること。
この三つは、それぞれ違います。
技術だけを寄せれば、似ているのに空っぽになることもあります。
逆に声質がまるで違っても、その曲の中心にある痛みや喜びに触れた歌は、本家に近い場所まで届くことがあります。
歌という行為は、極めてパーソナルな、生き様そのものです。
誰にでも好かれようと八方美人に歌うと、そのように聞こえます。
どれだけ綺麗で万人受けしても、誰の心にも刺さらないまま終わることもあります。
恋愛と一緒です。
目的をしっかり持って、ターゲットを決めないといけない。
もちろん、百人に「悪くないね」と言ってもらえる歌にも価値はあります。
広く受け入れられることを目指す仕事もあります。
しかし、たとえ好みが分かれても、
「自分はこうだ!」
と腹を括った音を提示し、たとえ全員に嫌われようとも、やり切る「覚悟」が必要になる瞬間があります。
マイクという機械は恐ろしいものです。
技術以上に、歌い手の「迷い」や「覚悟のなさ」を拡大してしまいます。
曖昧な主張のまま、それっぽく歌っても、バンドの音や会場の空気、波に一瞬で呑み込まれ、個性なんて影も形もなくなってしまいます。
反対に、たとえ声量が小さくても、
「私は、この一音をここに置く」
という意志があれば、その声は残ります。
歌の人は、自分の意見をハッキリと言い切るものです。
でも「言い切る」というのは、大声を出したり、日常生活で自己主張を押し通したりすることではありません。
たとえ小さな囁き声や、一瞬の間であっても、
「私は、この音を選ぶ」
という強固な意志を持つことを指しています。
高音の出し方も、フェイクも、ブレスも、技術はすべてあとから学べます。
けれど、唯一、あとから学んでも簡単には身につけることができないのが、
「ありのままの自分であること」
です。
これが、一番むずかしいのではないでしょうか。
他者の言うことを聞かず、好き勝手に振る舞うことが「ありのまま」なのではありません。
思いついた感情を、無加工で撒き散らすことでもありません。
自分が何を感じ、なぜその音を選び、どこまでなら譲れて、どこからは譲れないのか。
それを自分自身が知っていること。
借り物の言葉や、誰かに褒められやすい型で覆い隠さず、必要な技術を通した上で、自分の輪郭を残すこと。
それが、歌における「ありのまま」なのだと思います。
あのジョン・レノンだって、星野源さんだって、Official髭男dismのボーカルさんだって、実は自分の声があまり好きではなかった、という話を聞きます。
それでも人々が彼らの声に熱狂するのは、彼らが嘘偽りなく、彼らのまま歌っているように聞こえるからです。
自分の技術についていくら熱弁したところで、誰の心にも響かないかもしれません。
声という生身の言葉を発するとき、歌い手がやるべきことは、ただ一つ。
他人の評価や世間の期待ではなく、自分自身と向き合い、
「これが自分だ」
と、音で言い切ることです。
◆声の理論は“ある”
――でも、全部は喋らない
「アナタのやり方は間違っている」
「声が全然ダメね」
と誰かに言われても、必要以上に気にしなくていい。
オーディションや、その界隈のご意見番に気に入られなくても、それは求めている人材と違っただけの場合が多いものです。
指摘されたことを自分でも気にしているなら、心に留めて取り組めばいい。
けれど、
「ココとココを変えて」
と言われるたびに、誰かの歌の好みに合わせていては、自分の良さがなくなってしまいます。
どんな声を選び、どんな呼吸を重ね、何を削ぎ落としてきたかは、自分だけが知っていればよいことです。
外からとやかく言われても、放っておけばいい。
用務の内容によりますが、誰かの定義するプロアマ論はさておき、それなりの覚悟を伴ってマイクの前に立つ場合、当然、長い年月を費やしてきた自分だけの「声の理論」や、反射神経で対応できるほどになった「裏の仕込み」が存在します。
簡単に歌っているように見えたって、喉の使い方、身体の鳴らし方、言葉の語尾の置き方ひとつまで、長年の思考と試行錯誤の結晶が行き渡ってナンボなのです。
歌い出す直前、息をどこまで入れるのか。
母音をどの形で立ち上げるのか。
子音をリズムの前に置くのか、後ろへ引っ掛けるのか。
音程を真ん中から当てるのか、下から触れるのか。
語尾を残すのか、切るのか。
あえて息を混ぜるのか、芯を立てるのか。
その曲の中で、どの声を選び、どの人格で立つのか。
歌い手は、こうしたことを一つひとつ頭の中で言葉にしてから歌っているとは限りません。
むしろ、長くやっている人ほど、身体が一瞬で選んでいます。
けれど、無意識にできることは、「何もしていない」のではありません。
何度も考え、試し、失敗した末に、考えなくてもできる場所まで運ばれたものです。
自動的に、これはする、これはしないなど、普段から明確に決まっている歌い手ほど、いつも歌のために何か特別なトレーニングをやっているとか、一曲を仕上げるためにどうしているかなどは、自分からペラペラと語りたがらないものかもしれません。
仮に、
「こんなふうにやっています」
と、一から十まで順番通りに説明したとしても、それは、やっていることを最低限、自分以外の人にも分かるように書いた譜面のようなものです。
その通りに歌ってみたとしても、同じ音色やタイミングになるはずもありません。
同じレシピを使っても、同じ料理にはならない。
火の入れ方も、手の温度も、舌が感じる塩味も違うからです。
声なら、なおさらです。
手品師が種明かしをしないように、努力や技術の解剖図を言葉で説明した瞬間、歌が持つ「魔法」が解けてしまうとも言えます。
いや、
「これしかしてない」
と明かした途端、
「なーんだ! そうだったんだ」
と言われて終わることもあります。
けれど、種を明かしたら誰でもその手品ができるかというと、そうではありません。
スムーズにできるようになるには、それなりの練習が必要です。
手先が器用でない人や、心理的な目くらましの方法を心得ていない人は、いつまで経っても同じことができないままになることもあります。
知識を得ることと、身体ができることは違います。
説明を理解することと、その一瞬に実行できることも違います。
「私はこれだけ練習しました」
「このロジックで声を鳴らしています」
と、テクニカル面での解説を添えるのは、時に野暮というものです。
もちろん、教える仕事であれば言語化は必要です。
自分の経験を他者へ手渡すために、仕組みを説明する価値もあります。
私自身、こうして文章に書いている以上、言葉にすることを否定しているわけではありません。
ただ、言葉にしたものが歌のすべてではない、ということです。
説明は地図であって、土地そのものではありません。
歌い手が本当に歩いてきた土地の匂いや湿度、足元の感触までは、地図には書き込めません。
言葉で語るよりも、一つの音で示すほうが、遥かに純粋で、嘘がないことがあります。
その一音に、何十年分もの観察や、失敗や、選ばなかった道が含まれていることもあります。
聞く人が、それをすべて理解する必要はありません。
むしろ、説明されない何かが残っているから、もう一度聞きたくなる。
分からない部分があるから、声の奥を覗き込みたくなる。
すべてを明るい場所へ引きずり出さないことも、表現の一部です。
秘めるからこそ、花なのです。
■おわりに
私は、何も考えずに歌っているわけではありません。
けれど、考えていることを、いつも言葉にしてから歌っているわけでもありません。
子どもの頃に叩き込まれた音楽の骨組み。
猫の声を真似しながら覚えた、音の向こう側にある意図。
演劇を通して身につけた、身体と声の関係。
人の口ぐせや仕草を観察し続けてきた時間。
型にはめられることへの反発。
納得できない言葉を、自分の声で発することへの抵抗。
偉大な歌い手の声に近づこうとして、決して同じにはなれないことを知った経験。
そうしたものが入り混じり、今の声になっています。
歌は、経歴書のようには聞こえません。
「何歳から習いました」
「誰に師事しました」
「どこの学校を出ました」
という情報が、そのまま音になるわけではありません。
しかし、何を見て、何を拒み、何を選び、どのように生きてきたかは、本人が隠そうとしても、声のどこかに滲みます。
だから歌は、怖い。
そして、面白い。
本当は、ありのままの自分で歌うことほど、むずかしいものはありません。
人は、自分のことが一番、自分で分からないのかもしれません。
自分の声も、自分の顔と同じで、直接そのまま聞くことはできません。
録音や、他者の反応や、共演者の音を通して、初めて知ることがあります。
歌は、自分を表現する行為であると同時に、他者によって自分を知る行為でもあります。
だからこそ、他者の言葉をすべて拒絶すればよいわけでもありません。
ただし、誰の言葉を受け取るかは選ばなければならない。
自分を小さくするための言葉なのか。
自分では見えない場所を照らしてくれる言葉なのか。
歌い手には、その違いを聞き分ける耳も必要です。
そして最後は、言葉ではなく、やはり声です。
語ることがどれほど増えても、説明がどれほど巧みになっても、マイクの前に立てば、答えは一音の中に出ます。
私は何を聞いてきたのか。
何を愛し、何を拒んできたのか。
今日、誰に向かって歌うのか。
どの音を選び、どの音を捨てるのか。
それらを一つひとつ説明しなくても、声の中に現れる。
だから、全部は喋らなくていい。
分かる人にだけ分かればいい、という意味ではありません。
説明できない余白を、説明できないまま差し出すことも、歌の仕事だからです。
秘めるからこそ、花なのです。


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