土日に娘の運動会や文化祭とか何かしらの行事があると、
当日間違わないようにお弁当や着ていくものとか準備して、
普段作らないキャラ弁とか凝り始めたり、
いつも着ないようなちゃんとした服を着ようと意気込んで
奥の方からコサージュやらアイテムを掘り出してくるから
後片付けが大変です。
娘が小さかった時に比べると今は音楽のイベントが多いし、
ちょっと、山田家1階にある『おもちゃの部屋』を探すと
ボーカルや司会進行業務に必要なアイテムは
大体見つかるようになりました。
ちょっとマイクを買い足したい気持ちがあるけれども。
ずーっと同じやと思っていたら、
急に経年で劣化して見えてきました。
それなりに、この機材の使いどころがあったのだなぁと
今までを振り返ります。
何がしたいのかが広すぎて分からなくて、
何でもしたいっちゃしたいし…と選択の自由があります。
何が出来るのかもつかみどころがなくて。
昔から色々やってみたり、してみたら?と言われるまま
気が向けばそうするけど心や熱がこもらないことは続かず、
いろいろやってみて、ダメなら変えてみて…
の繰り返しです。1つだけ特化して…とかはなくて、
総合的に『こういう傾向のことが好き。』ということは
喜んでやるし、続くのになぁ。
俗っぽすぎることやスラムみたいなことはあまりしたくない、
かもしれません。なにかしら前向きに、活動したい。
ゴールはある、そこまでの行き方もそれなりにある、
でもどれが最良かしらを決めかねるときには
課題から始めると良いらしいって本があって。
Issue=課題。problemじゃなくて、単に、課題。
よく分からないからこそ、そうしてみて良かったです。
なんだか言葉遊びみたいだけれど、
戦略とは、戦いを、省くことっていうと…
戦う必要のないリングには上がらず、
やらなくてもいいのになんで?って言われるような、
ほんま、なんで?そんなことするのアホちゃう?
ってことでも自分の信条に背くことを見たら
見なかったフリしようとはならず、自分のルールに従う。
お節介かもしれないのに訂正しにいってしまう。
戦う必要のないリングに上がって喜ぶのは、
全然関係ない外野であって、
その人らをエンタメで満足させるために
『私』を消費させる、消耗させるなんて。ナイナイナイ~。
親切心からお節介しにいくときには、
もし相手が私やったらなぁと思うと見過ごすことが難しく、
子どもを産んでから特に自と他の区別が曖昧です。
自分がなくなっていくと表現できるし、逆に、
確固たる自分がある、テコでも変えない経験則がある。
とも言える。そこが、シンプルな違いです。
人間、生きてるだけで、
決めなければいけないことがもう沢山あるので、
優柔不断なところもあるけれど、
軽微なコトだなと思ったら誰かに決めてもうて、
特に拘ったりしていないで合わせていたり。
やるべきことだけに命を使うことに集中したくて、
これはしないと決めること、捨てることの大事さが
人生の後半には待っているのだなぁと…
八方美人には慣れないな...
タイミングとご縁と、運に任せで、
日々見切りをつけていく直観を大事にしています。
ここ数年で特に、平和と混乱の力比べが進んで、
今までのように平和なフリするメディアや国、権力?と
実際に目にする情報や印象の違い、違和感がすごい。
台風がなくなったり、ウクライナは?マウイ島は?
結局…何があったのか。自分の目で、歩き回って
状況を見てきたわけではないので、
どんなことにしても判断材料が乏しいです。
私の周りでは、
勝っているように見えてどんどん負けていって、
負けたように見えて勝っていく例が増えているような。
そんな流れがどどーっと。最近多いです。
今になって答え合わせみたいに。たとえば昔、なんで、
学校の先生の言うコトが聞けなかったのか。
なんで親の言うコトはイチイチしょーもなくて、
おばあちゃんの言うコトがホンマに思ったんやろうか。
なんで、ちょっとした違和感と頭痛、体調不良のために
周りの大半の人とタイミングが合わないのか。
全部、詳しいことは分かんなくていいから
とにかくこっちにしときなさいって、自分の行動を
なにかに促されているような気がしてならないです。
先生の言うコトを聞けないとは反抗的な…
と授業中ずっと先生から攻撃の対象にされたり。
今思い出しても自分のなさそうな、おかしな人だった。
親も普通の人で。育ててもらったことは感謝している、
けれど、妹も私も思春期になる頃には
うちの母より精神的に大人な決断が出来る、
ドライさを持っていました。おばあちゃんのほうが、
人生の先輩だけに、ちょっと達観して見えました。
片頭痛持ちで、ここ一番のところで頑張れなくて。
その他体調不良のタイミング、家に忘れ物をしたり、
そんな些細なことにもなにかワケがあるなぁと、
虫の知らせみたいに。
そんな遠い過去ではなく、日本人らしいことに、
大本営発表は段々ウソの宣伝になっていって。
その業界の人が口を揃えて、『これが正しい。』
なんて言っていることはちょっと右か左へならえで、
誰か(権力とか、お金?)に忖度するために、
間違っていることでもお金のためにウソをついたり。
そのコミュニティー周辺だけのルールで、
そもそもそのコミュニティーってどんな規模なのか、
音楽の神様に愛されてるのか商売の神様に愛されてるのか。
もっともそうなことを言ってルールを設けたりするけど、
出来ない人の出来ないところを笑って区別して、
優性論で語ったりしていないか。
死んだあと、天使の羽根と心臓の重みを天秤にかけて、
なんの重みもない命の使い方をしてしまったと判断される、
生き方では2流、3流の合理的なだけのただの人、なのか。
やってることは神に誓って1流なのか。
なにか(権力とか、お金?)を区別したい、差別したい、
守りたい気持ちゆえにちょっとズレてしまって、
本筋からかけ離れたものになっているかもしれません。
個人個人にできることは、
それが嫉妬や軽蔑を伴わない正当な区別であるのかどうかを、
よく見極めておかないと。
そりゃそっちの論理でしょ?って言って終わりにしちゃいます。
生きているとなんでも商売・商売なので、みな必死。
思考回路が停止しているかもと思ったら...
まるでAIにチャットで何か質問したのに、
尤もそうに見えるけれど有り得ない結果が出てきたなぁ、
あ、この人もAIみたいな理屈で話してはるのかもなぁ…
と信じずに1つの意見としてテケトーに流していて、
あとは好きなようにやってみること。これを続けていくと、
常識や前例の外に身を置くことが出来るわけで、
AIの世界では
次の事を1から創造することが苦手だろうから。
違和感があったら直観に従うコト。
整理整頓が行き届くような生き方を選択しないこと。
良くも悪くもAIにはなれないカオスに身を置くこと。
結局人間らしさの一番大事なことかもしれません。
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