誰かに勝たなくても、自分の仕事が成立しているということ①
第一部 人は、なんでそんなに誰かを見続けるんやろう
読み進めていくうちに、
「ところで、この人はどういう立場でこんなこと書いてるん?」
となるかもしれないので、先にお伝えしておくと……
私は現在、奈良市民ではありません。
元々は東大阪市民。 二十歳前後には、八尾市の友人宅に4年ほど居候していた時期もありました。
その後、20年ほど前に奈良市へ移り住み、4年ほど前からは生駒郡の人です。
なので、
「お前、そもそも奈良市議選の有権者ちゃうやん」
と言われれば、そうですね(笑)。
関係ないといえば、関係ない。
ただ、20年近く暮らした町です。
今も奈良市では歌うし、人に会うし、ご飯も食べるし、お酒も飲む。音楽活動を通じて知り合った人もたくさんいるし、市議会議員さんにも何人か知り合いがいます。
だから完全な「よその町」としても、なかなか見られない。
そんな、元奈良市民・現生駒郡の人、半歩外側から、最近の奈良市議会を眺めています。
二人の議員さん
最近、ある二人の市議会議員のやり取りが、どうにも気になっています。
一人は、長く市議を務めてきたベテラン。
ここでは仮に、「桃栗さん」と呼ぶことにします。
もう一人は、全国的には以前からよく知られていたけれど、政治家としてはまったくの新人。
こちらは、「ニューカマーさん」「ニューカマー氏」?としておきます。
別に、名前を出したら困るような話を書くつもりではありません。
奈良の政治を見ている人なら、読んでいるうちに何の話か分かるかもしれない。
でも今回、私が書きたいのは、
「どちらが正しいのか」
「どちらを支持するのか」
という話だけではありません。
この二人を眺めているうちに、
人はなぜ、特定の誰かをこんなにも見続けるようになるんだろう。
と考えを巡らせるようになったからです。
なので今回は、あえて実名を置かないことにしました。
私は「桃栗さん」を、以前から知っています
知っている、といっても、まだ実際にはお会いしたことはありません。
ただ、Facebookではもう7年ほどだったか、「友達」として繋がっています。
これも少し変な話で、 どちらから友達申請をしたかも記憶があやふやです。
SNSをしていると、選挙が近づいた頃などに、地域の候補者や政治家の方から申請やフォローをいただくことがあります。
私も、名前も顔も知らない 「海外の医師です」 「投資で成功しています」みたいな人なら承認しませんが(笑)、 街のポスターで見かける名前だったり、共通の友人が何人もいたりすれば、「ああ、この地域の方ね。よろしくお願いします」という感覚でつながることはありました。
桃栗さんも、そんなふうにつながった一人だったと思います。
だから私は、政治家としての発信だけではなく、長いこと日常の投稿も見てきました。
お子さんのこと。
「今日のパパご飯」のような投稿。
別に私は熱心な支持者だったわけではありません。
でも、そういう投稿を見て、
「お父ちゃん、頑張ってはるなあ」
と思って、普通に「いいね」を押していました。
真面目な人なんだろうな、とも思っていました。
だからこそ最近、
「桃栗さん、どうしはったんやろう」
と思うことが増えました。
そして、ニューカマーがやってきた
その後、市議会に、とても知名度の高い新人が入ってきました。
過去には、かなり問題のあることもしてきた人です。
そこを全部なかったことにして、
「今はいい人だから、過去はどうでもいい」
なんて言うつもりはありません。
議員になってからだって、
「いや、それはアカンやろ」
と思うことはあります。
ただ私は一方で、
過去に問題を起こした人は、
その後何をしても永遠に同じ評価で見なければならない
とも思っていません。
今やっていることは、今やっていることとして見たい。
だから私は、
「この人、政治家になって何するんやろ?」
と、自分の方からニューカマーさんをフォローしました。
面識はまったくありません。
投稿に「いいね」を押すこともありますし、Xで二度ほど、結果的に擁護するようなコメントを書いたこともあります。
でも、本人はそんなこと知らないでしょう。
私のことなど知らない、直接的には繋がって...ない(笑)。
考えてみると、ちょっと面白い関係。
桃栗さんは、向こうから私のところへ来た政治家。
ニューカマーさんは、私の方から見に行った政治家。
この違いについては、また後で触れようと思います。
最初は、むしろ面白い組み合わせに見えた
この二人、最初から現在のような関係だったわけではないようです。
ベテランの桃栗さんが、新人のニューカマーさんに議会資料の見方を教えたり、議会の仕組みについて説明したりしていた時期があったとのこと。桃栗さんのLINE投稿などで読んだことがあります。
私はその話を知ったとき、
ああ、それでええやん。
と思ったんですよね。
長年、市政を経験してきた人。
議会のことをほとんど知らないまま飛び込んできた新人。
政治的な考え方なんて、違って当然です。
でも、
「これは読んどかなあかんで」
「そうなんですか」
から始まってもええやん、と。
むしろ二人が持っているものは、かなり違います。
一人には、長年積み上げてきた経験がある。
一人には、それまで政治に関心がなかった人まで振り向かせるほどの、とてつもない発信力がある。
違うからこそ、案外面白い組み合わせになるんちゃうかな。
私は、そんなふうに見ていました。
ところが、だんだん様子が変わってきた
もちろん、二人が揉めるようになったのには、具体的な出来事があります。
SNSへの投稿をきっかけに、議会内でかなり激しいやり取りになったこともありました。
ここについて、私はニューカマーさんを全面的に擁護する気はありません。
大声で詰め寄る。
相手の進路を塞ぐような状態になる。
複数の人が、大きな声や対立そのものを見聞きしている。
それはアカンやろ、と思います。
一方で、その後ベテラン側が発信した細かな状況のすべてが、第三者によって同じ程度に確認されているわけでもありません。
現場にいた人の証言の中には、一部について「そこまでは確認できなかった」というものもありました。
だから私には、
「何もなかった」とも思えない。
でも、
「一方が発信した内容のすべてが、そのまま100%客観的な事実だった」とも、今の材料だけでは言い切れない。
そう見えます。
こういうことは、一個ずつ分けて考えたらええと思うんです。
ニューカマー氏が悪いところは、悪い。
桃栗さんの言っていることに根拠があるところは、ある。
分からないところは、
分からない。
それでええやん、と。
でも、いつの間にか「その人そのもの」がテーマになってきた
私が本格的に引っかかり始めたのは、その後です。
一つ問題が起きる。
発信する。
相手が反応する。
また発信する。
今度は支持者が反応する。
さらに、それについて発信する。
もちろん、一つ一つには発端があります。
どっからどこまでとか、こちらは詳しいことまで分からないし、
「桃栗さんが何の理由もなくニューカマー氏を攻撃している」
なんて単純化するつもりはありません。
ただ、長いことFacebookで発信を見てきた私には、いつの間にか、
桃栗さんの発信の中で、 ニューカマーが占める面積が、 ずいぶん大きくなったなあ
と感じられるようになりました。
そして、ついには本人だけではなく、その人に投票した人たちまで、独特の言葉で揶揄するようになった。
別の発信では、本人だけでなく、その支持者についてまで「軽蔑する」という趣旨の言葉が出てきました。
ここで私は、かなり引っかかりました。
政治家が政治家を批判する。
それはいい。
間違っていると思うなら、議会でもSNSでも議論したらいいと思う。
でも、
その人に投票した市民まで、 まとめて馬鹿にする必要があるんやろうか。
私はそこに、どうしても”爽やかさ”みたいなものを、 感じられませんでした。
8,000人を「間違った人」にして、それで終わりなんやろうか
選挙というものを考えると、なおさらです。
「どうして、あんな人に8,000票も入ったんだ」
と腹を立てることは簡単です。
でも政治家なら、
「なぜ8,000人が、この人を選んだんだろう」
と考えることもできるはずです。
自分には拾えていなかった市民の不満があったのかもしれない。
既存の政治家には言えなかったことを、代わりに言ってくれるように感じた人がいたのかもしれない。
行動力を評価した人もいるでしょう。
単純に有名だから入れた人だっているでしょう。
理由は、一つではないはずです。
それを全部、
「あんな人を支持する人たち」
でまとめてしまったら、そこで思考が止まってしまう。
私はむしろ、
「自分が持っていない何を、この人は持っているんだろう」
と考えた方が、ずっと面白いと思うんです。
これは別に、
「私ならそうするのに」
ということではなくて、可能性の話です。
シンプルに私は、 人を見るときに、そういうところが気になります。
今起きている疑惑についても、私はまだ分からない
現在、ニューカマー氏の選挙運動について、 かなり重い疑いを訴える陳情も出ています。
もし本当に、公費を不正に請求したり、 選挙運動に関して違法な利益供与があったりしたのなら、 当然きちんと調べられるべきです。
そこを庇うつもりはありません。
でも、
「陳情として出されたこと」と 「そこに書かれたことが事実だと確定したこと」は、 同じではありません。
私はそこを混ぜたくないんです。
その二つが、いつの間にか一続きの話であるかのように受け取られてしまうような発信には、私は少し慎重であってほしいと思いました。
事実と推測と印象は、なるべく別々に置いておいてほしい。 その後、陳情をめぐって
当事者間で電話があったという話も出てきました。
その電話があったのか。
何を話したのか。
受けた側はどう感じたのか。
それを「脅し」と表現するのが適切なのか。
そして何より、
その電話の存在と、
元々の疑惑が事実であることは、別々の話です。
私は、ここも一個ずつ見たい。
分からないものは、
分からない。
現在のところ、それで置いています。
ニューカマー氏側にも、同じことを思う
そして、これは桃栗さんだけに言いたいことでもありません。
ニューカマー氏自身も、
「自分を辞職に追い込もうとしている」
という強い危機感を発信しています。
実際、この人を嫌っている人はいるでしょう。
議員を辞めてほしいと思っている人もいるでしょう。
でも、
周り全部が敵なんやろうか?
とも思います。
一人と激しく揉める。
陳情を出す人がいる。
自分の政治姿勢を批判する議員がいる。
それらを全部まとめて、
「議会が俺を潰そうとしている」
「既得権益が俺を排除しようとしている」
という物語にしてしまったら、それもまた危うい。
桃栗さんには、
ニューカマー氏を見過ぎないで。
ニューカマー氏には、
敵を見過ぎないで。
今のところ、私はそんなふうに感じています。
人は、何を見ている時間が一番長いんだろう
今回のことで個人的に気になっているのは、
「結局どっちが正しいの?」
ということだけではありません。
むしろ、ずっと引っかかっているのは、
なぜ人は、 特定の誰かをこんなにも見続けるようになるんだろう。
ということです。
私は人間関係でも、 自分が深く関わっている音楽周りのことでも、 誰か一人を見続ける状態になると、 どうしても風通しが悪くなるように感じます。
相手を見る時間が増えるほど、
自分が本来見ていたはずのものが、視界から消えていく。
誰かの投稿を見る。
腹を立てる。
反論する。
相手が反応する。
また反論する。
今度は、その人の支持者が何を言っているのかまで気になる。
そうしているうちに、
自分は本当は、何をする人だったんだろう。
というところから、少しずつ離れていく。
政治家なら、本来見ていたはずなのは誰なんだろう。
隣に座っている議員なんだろうか。
それとも、
その向こうにいる市民なんだろうか。
私は、争うことそのものが嫌いなわけではありません。
争うべきところでは、争ったらいい。
批判することもある。
腹が立つことももちろんある。
「それは違う」と線を引くこともある。
でもそこには、ある程度の風通しの良さや爽やかさがあってほしいと思っています。
そして、何をするかと同じくらい、
何をしないか。
音楽でも、鳴らす音だけが音楽ではありません。
どこで音を出すのか。 どこで引くのか。 どこに“間”を置くのか。
音を出さない時間にも、その人の品や美学は出る。
人とのやり取りも、案外同じなのかもしれません。
どこまで言うのか。
どこからは言わないのか。
相手の悪いところを批判しながら、良いところまで否定せずにいられるのか。
勝てそうなときに、どこまで追うのか。
そして、
用事が済んだら、そこから離れられるのか。
これは政治家だけの話ではないはずです。
私自身、学校でも職場でも、そして長く関わってきた音楽の世界でも、似たような構図を何度か見てきました。
誰かが誰かをライバルだと認識する。
「あの人より上へ行きたい」
「あの人に集まっている関心を、こちらへ向けたい」
「できれば全部、自分の色にしたい」
そんな勝負が、いつの間にか始まっている。
でも第三者として眺めていると、ときどき思うんです。
その勝負、相手もエントリーしてるんやろか。
と。
そして、もう一つ。
誰かに勝たなくても、
自分の仕事が、それだけで成立していたらええんちゃうの。
と。
この話は、いったん政治から離れます。
次は、歌の世界や人間関係で私がずっと感じてきた、
「一方だけが勝負だと思っている関係」
について考えてみたいと思います。



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