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執筆者の写真Keiori Takagi

雨しっかり。体ダル重。

今日の仕事は終了。主人はまだ帰らない。



あのときの気持ちが知りたくて。今との違いや全く変わっていないところを認識しながら、次へ進めよって合図かも。昔に日記代わりに書いていた文章が懐かしく、非常に鮮明にあの頃を思い出される仕組みになっています。



6年前に見学も入れて4カ月だけ在籍したゴスペルグループのことが書かれていて文体が全体的に若いなぁと苦笑い。勢いがあります。めっちゃ頼りにしてくれたのにすぐ出てしまって。皆元気にしているかな。。



やってることも若い。全然知らん歌を1時間の出番待ちに反復練習してそのまま歌った記憶とか、実際いろんなところで歌の相手をするために店の外で1~2回Youtube聴いてコツをメモってすぐ歌うとか日常でした。



自分のためには出来ないこと、カッコつけて穏やかに過ごしたいと書いているけれど要は「何もしたくない」のと、だれかと競い合うとかも面倒くさい。代わりがいるときはその人が、いないときには私がやる。



自分の立ち位置は、昔と変わっていないことが分かりました。567な世の中を経て加速度的に、自分の信仰心みたいなものを試されます。先の見えない世の中でも、自分の中にいる神さま仏様ご先祖様は確かにいて。



最近またゴスペルグループに入れてもらうことになって、周りの方を観察していると、自分の中にいる存在と言うのはいろいろ混じっているけれど、キリスト教と親和性があるなぁと気づきました。仲良く出来るんだと。



厳密には違うかもだけど概ね賛成。牧師さんや信者さんと話したり様子をうかがう機会が増えましたが、ほんの数年前より、ゴスペルのリーダー役(先導する人)の気持ちが良く分かるようになりました。



強い気持ちで、何とかなると信じる姿勢とか。何の根拠もないのに、みんなを巻き込んでやり切るムードは先導者ならでは。前のゴスペルグループは教会関係ではなかったし、探り探りでも共感します。



ベストを尽くして、大いなるものにゆだねる。なんでそんなことをするの?と聞かれても、私だって100%分かっているわけではない。だけど「世の中がより良くなるように」と四方八方に働きかけていると、なんとなーく、



分からないなりに、良し!とすることをやってみる。ずる賢いやり方では信仰に反することになるので世の中をより良くする方向で。そうやって歯車を回そうとすると俗っぽい神さまの側からの逆風をビシバシ感じますが。



思わぬ逆風や足の引っ張り合いに巻き込まれて、悩んで脳内のバグみたいに思考が同じところをクルクル回ってしまうこともあるけれど、同じところにいる限り同じ悩みにずーっと付き合い続けて解決できないので、



腹をくくって出て行くなり、新しいことをするなり、距離を置くなりどうするか決めたなら、スパッと袂を分かつ。6年前の自分はゴスペルを辞めて、基本的に1人で歌うことにして、神様を賛美する歌はやめました。



1度経験すれば似たようなことが起こっても秒で解決できるようになる。迷わなくなる。イマイチ気持ちが擦り切れちゃうな...一方的に力を使っている?大事にされることはなく搾取されている?と感じるとすぐサヨナラ。



そりゃ間違ったところに居てるからだろうし、モノの価値が分からないところに身を置いても自分の強みを活かす機会は永久に来ないだろうし。他にナンボでもニーズがありそうなんでほな!ってことになります。



神さまによる大いなる人事異動だってあるかもしれません。人には役割があり、それがどこで発動するかは私にも分かりません。日々アンテナを張って、流れが来ていると感じたら乗っかるだろうし。



どんなに願っても向いていないことはやろうとしても上手くいかないだろうし、頑張ってもあかんなぁとなれば諦めるだろうし。置かれた場所で咲くというより、花が咲きそうな環境に自分を運ぶこともあるだろうし。



こりゃあかん💦という事態に陥ってもベストは尽くしていれば、その時が来ればどこからか助け船が届いたりします。それが起こるたびに最初は、「有りえない!」とまるでモーセが海を割った!みたいに騒ぎました。



ここ数年は呆気にとられている主人の横で、また助けてもうて💦と焦る。そして、「神さま、ありがとう😿」とホッとして。自分自身驚くのですが、それこそが私の理解を超えた奇跡で、



比較的そういう事態が起こりやすいということは、自分が選んでいる道は少なくとも間違いではないんだなと自分の信じる神さま仏様ご先祖様に感謝して。また1から前を向いてやっていく、その繰り返しです。



『偶像崇拝』について先日お話をする機会があったけれど、非常に分かりやすい説明で、私が違和感を持っていることの原因を理解することができました。なんでも分かりやすくするのには限界があるんですが、



SNSやネット上には、「これさえしておけば、お金持ちになれる!」とか「これさえ信じて置けば天国に行ける!」とか、「歌が上手くなりたければ〇〇せよ!」みたいなものが溢れていて、ほうほう、どれどれ、



ははーんと自分なりに考察する機会があるんですが、それらだって偶像崇拝の形の1つだと言えると。だから違和感がある。大いなる神さんがいらっしゃるとして、その人に成り代わって神のように自分の正義をぶつける。



でも人の数だけ正義があるわけで、大体において人間関係のトラブルの原因は自分の側の正義が全てになって、その正しさゆえに他の人を許容することなく争いになってしまうものだし、柔らかい心でいたいなと思いました。



発信者さんが、信仰を持っているかもすぐ分かります。特定の宗教を信じているかではなく、心の拠り所がなさそうな感じがするか、すごく資本主義的で、四角い感じで。



ルールブックを作りたいんだろうな。それって、聖書みたいな絶対的なものを作りたいみたいなことかな。神さまではないのに?足りないところだらけの私たちの中でもほんの少し、業界を分かっているから?



だとするとものすごく俗っぽい。なんともこの世の神に好かれそうなやり方。最近流行りの料理研究家(?)さんの、「めんつゆさえ入れれば!」「バター増し~☆」みたいなレシピを観て有難う!となるのはEasy過ぎる。



味の素をふんだんに使ったり、支持しているのは昔の私みたいな時間のない働きママたちだろうけど、なんでもめんつゆ入れて育てられた子どもの味覚は...そりゃおいしいだろうけどそこに至る何かが欠けてしまうかも。



バズりさえすればいい、のではなく。バズったら有名人になれたりするもんだからそうなっちゃうかもだけど。そんな有名のなり方もやり方が間違っているとお天道様に顔向けできないことをしていては意味がないだろうし、



地道に、ほんま地味ーな日頃の積み重ねの中に本物が宿るのでは?などと、まるで煮干しとカツオ、昆布から丁寧にダシを取るみたいな旨味や、スローフードは、違いが分かる人にはすぐ分かっちゃうものです。



それとも足りない頭の私たちが理解できないうちに、あるいはちょっと分かる人の嫉妬を買って、色々評価されないように邪魔だてされて、足を引っ張られて、活躍できないようにダメにされて死んでしまったとしても。



それはそれで、人間の罪を背負って死んでしまったみたいに神格化されて。亡くなったあとから評価されたりする。芸術家や芸能人、正しいことをしようとした政治家に多いかも。



間違っているのに、分かりやすいものに飛びつきやすい人は沢山いる。もしかしたら本物を判別する力がないのかも。お料理なら味覚が、音楽なら聴く力が、ないから分からない。



でも分かる人には分かる。絶対数は少ないけれど、確かに感覚が鋭い人はいて、地道にやっていればちゃんと見ていてくれる。この世はそういうところだ。



分かりにくいものを少しだけ、分かりやすくする努力はした方がいいかもしれないけれど。そんなに、全員に分からせようと思わなくてもいいんじゃないかな。



それも人として寂しいんだろうか。


自己顕示欲?承認欲求?の類い、なんだろうか。


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