自分の中にある、共和国憲法草案
更新日:4 日前
――自分の中の誰か一人に、独裁させないために
私の中には、たぶん何人かいる。
……と書くと、ちょっと物騒な始まりですが(笑)。
多重人格という意味ではありません。
JAZZを歌っている私。 FUNKやR&B、SOULを歌っている私。 人前で司会をしている私。 誰かの話を聞いている私。 世話を焼いている私。 腹を立てている私。 急にものすごく冷静になる私。
「もう知らんがな」と言っている私もいる。
どれも私です。
以前、私はこれを「板チョコ」に例えたことがあります。
板チョコには最初から割れ目があって、
一片一片を分けることができる。
でも銀紙を開けるまでは、
一枚のチョコレートとして包まれている。
私の中のいろんな自分も、そんな感じです。
ところが最近、
もう一つ別の比喩を思いつきました。
私の中には、小さな共和国がある。
人格ではなく、いくつもの「政党」がある
私という人間は、いつも同じことを考えているわけではありません。
むしろ、かなり矛盾しています。
「この人を助けたい」と思う私がいる。
その横には、
「いやいや、それは本人がやることでしょう」
という私もいる。
腹が立って、
「もう二度と知らん」
と思う私がいる。
でも少し経つと、
「とはいえ、あの人がああなった事情も分からなくはない」
と言い出す私もいる。
誰かが評価されれば、
「良かったね」
と思う私もいるし、
「えー、いいなあ。私もそこに行きたかったわ」
と思う私だっている。
どちらが本当の私なのか。
どちらも本当です。
香織共和国には、いろんな政党があるのです。
問題は、政党がたくさんあることではありません。
問題は、その中の一党が突然、
「今日から私だけが国家です」
と言い出すことだと思っています。
闇にも議席はある。ただし全議席は渡さない
人間ですから、嫉妬もします。
腹も立ちます。
誰かに勝ちたいこともある。
認められたい、褒められたい。
「あの人より私の方が」と思う瞬間だって。
時には、
「ちょっと痛い目に遭ったらええねん」
くらい思うこともあるでしょう。
私は、そういうものを自分の中から追放しようとは思っていません。
闇にも議席はあります。
発言権もある。
選挙権もある。
ただし――
全議席は渡さない。
ここはかなり大事なところです。
「私はいま、あの人に嫉妬している」
そういう気持ちを持つことも、人間ですから。 モチロンあります。
でも嫉妬している自分を認めたくないために、
「あの人が評価されるのは、きっと裏で何かあるからだ」
となったら、話が変わってくる。
「私はいま腹が立っている」
それも全然いい。怒っていること自体を消す必要はないです。
でも、
「私がこんなに腹を立てているのだから、あの人は悪人に違いない」
になったら危ない。
10%の嫉妬や怒りが政権を取ることはあってもいい。
でも残り90%の自分まで集めて、
10%の感情の弁護士にしてはいけない。
事実まで、その感情に都合のいい形に書き換えてはいけない。
香織共和国では、
そこをかなり厳しく取り締まっています(笑)。
一貫性とは、いつも同じ性格でいることではない
昔は、人間として一貫しているというのは、
いつも同じように考え、
同じように振る舞うことなのだと思っていました。
今は少し違います。
優しい私と冷たい私がいてもいい。
社交的な私と、一人になりたい私がいてもいい。
許す私と、絶対に許さない私がいてもいい。
昨日と今日で結論が変わることだってあります。
ただ、
昨日の私がしたことを、
今日の私も「私がしたこと」として引き受ける。
これは必要なことだと思っています。
「昨日は腹が立って、
勢い余ってあなたの連絡先スマホから消しちゃった。
でも今日になってみると、話したくなりました。」
なら、矛盾していても話は通じる。
でも、
「私は連絡先を消したりなんかしません」
と昨日の自分そのものを消してしまったら、 話がややこしくなる。
多面性と、分断は、よく似ているようで違います。
私にとっての「軸」は、 いつも同じ色でいることではありません。
どの色の自分が出てきても、同じ憲法の下にいること。
それが一貫性なのだと思っています。
目の前の私を説得しても、法案は通りません
これは、私と付き合う人には少々面倒なところかもしれません。
いろんな立場の人の話を聞きます。
どちらの意見を聞いても、
「それも分かるなあ」
と思うことも多い。
困っている人を見ると、助けたくなる私もいます。
だから、その場にいる私だけを見ていると、
「よし、分かってくれた」
と思われることがあります。
でも、その頃、共和国の奥では別の人たちが仕事をしています。
「ちょっと待って。この話、前回と違わへん?」
「要求が前より増えてない?」
「その人の話と事実関係が合ってないよ」
「
この人を助けることで、別の誰かにしわ寄せが行かない?」
「私はこの人に同情する。でも、このやり方に賛成していいの?」
誰も退席していません。
愛想よく話している私の後ろで、別の私が議事録を取っています。
情に動いている私の横で、別の私が帳簿を見ています。
怒っている私の後ろにも、
「いや、それ以上やったら今度はこちらがおかしいで」
と言っている私がいる。
そして最後には採決があります。
だから、
一人のタカギを口説き落としても、法案は通らない。
ここを知らない人とは、時々ものすごく話が食い違います。
「優しい私」だけを攻略しようとすると失敗する
たとえば、
「この人は優しいから、もう少し頼める」
「情に厚いから、事情を話せばやってくれる」
「怒らないから、このくらいは大丈夫」
「人との縁を大事にする人だから、結局は離れない」
そんなふうに、私の一部分だけを見て働きかけられることがあります。
その部分の私は、確かに反応します。
かわいそうだな、と思った。
手伝ってあげようかな、とも、思った。
今回は私が折れればいいか、と話をまとめようとした。
ところが、その瞬間にも別の私が、
「いま、この人はこちらの一部分だけを使って、
共和国全体を動かそうとしていないか?」
と見ています。
そして違和感は、すぐには判決になりません。
一件目。
保留。
二件目。
まだ保留。
三件目。
前の話との整合性を確認。
四件目。
他の人への振る舞いも観察。
そうやって材料が溜まっていく。
あるところまで来ると、
「この関係は、こちらが努力すれば正常に戻る種類のものなのか」
という審議に入ります。
そこでNOになったら、私は関係条件を変えます。
距離を置く。
役割を変える。
場合によっては、そこから降りる。
これは復讐とかそういう話ではなく、
共和国にだって、撤退する権利がある。
それだけのことです。
私の中には、昔から「憲法制定者」のような人がいた
子どもの頃から、自分の中に不思議な存在がいました。
おばあちゃんのようで、実際の祖母とは少し違う。
時々、父のようにも見える。
何かあかんことをすると、その人たちはガッカリして姿を消す。
本当にどうしようもないことに巻き込まれそうになると、
「逃げなさい」
と言う。(正確には、
意識レベルでサインのようなものを送ってくる。)
逆に、自分では正しいと思っていることをしていると、そこにいる。
周りの大人が「それが正しい」と言っていても、
私の中のその人たちが顔を背けていることもありました。
今考えると、あれが何だったのかは分からないけれど。
霊的なものだ、と断定する必要もない。
心理学的な名前をつける必要も、私はあまり感じません。
ただ、
外側の評価とは別のところに、自分なりの規範を置く場所があった。
それは確かだったように思います。
根拠のない自信
私の母は教育熱心でした。
何か出来ても、そこで終わらない。
出来たなら、次。
それも出来たなら、もっと次。
「よく頑張ったね」で終わるより、
「もっと出来るでしょう」
と課題が増えていく。
子どもの私には、仕事が次々に入ってくるような感覚でした。
やりたいかどうかとは別に、求められればやらなければならない。
嫌でも責任がある。
もちろん、それが良い教育だった、と単純に美化する気もありません。
嫌だったものは嫌でした。
でも不思議なことに、その中で私は、
「まあ、私は何とかするだろう」
という、根拠のない自信を育てました。
これは、
「私は本当はすごい人間なのだ」
という自信とは少し違います。
「今は出来ない」
と言っても大丈夫。
「この人の方が上手い」
でも大丈夫。
「今回は落ちた。あかんかった」
でも大丈夫。
現在の自分が理想に届いていなくても、自分そのものまで否定する必要がない。
まだ出来ていないなら、これからやればいい。
根拠のない自信というのは、本来そういうものなのかもしれません。
自信があるから、現実を曲げなくて済む。
こう考えられる自分というのは、
昔の私が少しずつ積み上げてきたものなんだと振り返ります。
未来の自分に、現在を乗っ取らせない
人間は誰でも、
「本当の私はもっとこうなんだ」
という像を持っていると思います。
もっと評価されたい。
もっと成功したい。
もっともっと愛されたい。
もっと自由になりたい。
そう望むこと自体は悪いことではない。
生きていく中で、 どうやって自分の居場所を作っていくかを考えると、 人として自然に起こる気持ちだと思います。
でも、まだ夢を成し遂げていない現在の自分を、
夢を成し遂げた後の自分に乗っ取らせてはいけない。
未来の自分が、
「私は本来このくらい扱われるべき人間だ」
と言い始める。
現実がそれに追いついていない。
すると、未来像を修正するのではなく、現実の方を説明し始める。
評価されないのは誰かのせい。
選ばれないのは何か裏がある。
他の人が評価されるのは優遇されているから。
私がうまくいかないのは、周囲が分かっていないから。
そうなったとき、
理想は羅針盤ではなく、独裁者になる。
香織共和国にも、夢を見る自由はあります。
いろんな人をハッピーにする、大きな夢ほど歓迎です。
ただし未来の大統領には、 現在の国会を解散する権限を与えていません(笑)。
まだ、会いに行かなければならない人がいる
子どもの頃、自分よりずっと年上に感じた内なるおばあちゃんも、今ではそれほど年上には感じません。
いつの間にか同じくらいになった。
中には、
「ああ、この件については私の方がもう先まで来たな」
と思うこともあります。
でも、それで終わったわけではないんです。
まだこれから会いに行かなければならない人がいます。
それはたぶん、
嫌だと思っても、やらざるを得ないことをやり続けた人。
逃げるべきところでは逃げる。
辞めるべきところでは辞める。
私はそういうことを覚えてきました。
でも人生には、嫌でも逃げられないものがある。
辞めたくても辞められないことがある。責任がある。
それを美談にするのでもなく、
誰かに八つ当たりするのでもなく、
ただ引き受けて、長い時間を生きた人。
私はまだ、その人には追いついていません。
だから香織共和国は、完成国家ではありません。
判例は増え続けています。
憲法解釈も変わります。
時には法改正も必要でしょう。
音楽だけは、全員が同時に喋っていい
そして、そんな共和国の中で、一つだけ特別な場所があります。
音楽です。
社会生活では、全員を同時に喋らせるわけにはいきません。
怒りも、嫉妬も、意地悪さも、悲しみも、死への恐怖も、そのまま全部出して生きていたら大変です。
でも歌の中では、全員いていい。
子どもの私。
怒っている私。
恋をしている私。
冷たい私。
どす黒い私。
おばあちゃんのような私。
馬鹿みたいに明るい私。
音楽の中だけは、全会一致でなくていい。
むしろ反対意見が鳴っている方が面白い。
それでなのか。
私は、悲しい歌を歌っても、あまり悲しすぎるところへ行かないかも。
私が好きなのは、Ella Fitzgeraldのような明るさです。
悲しみを知らない明るさではない。
暗いものを消毒して、白くした明るさでもない。
いろんな色が残ったまま、最後には光として聞こえてくる。
私には、それが虹のように思えます。
いつ消えるかも分からない。
でも、出ている間は確かにそこにある。
香織共和国憲法・暫定条文
私の闇を追放しない。
嫉妬にも議席を与える。
怒りにも発言させる。
夢は大いに見ればいい。
ただし、誰か一人には独裁させない。
事実を、自分の感情に合わせて書き換えない。
昨日の自分がしたことを、今日の自分も引き受ける。
理解することと、付き合い続けることを混同しない。
相手の人生の結末まで、自分が演出しようとしない。
そして――
目の前にいる私だけを、タカギの全部だと思わないでください。
笑っている私の後ろにも、私がいます。
怒っている私の後ろにも、私の姿が。
情に流されている私を、別の私が見ています。
その場では黙っている私も、議会から退席しているわけではありません。
そして大事な話、目の前の私一人をやり込めても、たぶん思った通りには進みません。
私と話をするなら、
私の一部分ではなく、共和国全体と話をしてください。
それでも話が通じる人とは、たぶん長く付き合える。
どうしても通じない人とは、どちらが善人でどちらが悪人という話ではなく、
そもそも採用している憲法が違うのだろう
と思っています。
そして私自身も、まだこの国のことを完全には分かっていません。
これから新しい自分が議席を獲得するかもしれない。
昔の条文を読み直す日も来るでしょう。
まだ会ったことのない、未来の自分もいる。
だから――
香織共和国憲法は、現在も改正審議中です。
こんなことをあえて文章に書いたのには、
これって自分の中では当たり前のことだと思っていたけれど、その認識が変わったからです。
みんながみんな、統合しているわけではないんだ...
それと、かつては統合していたけれど今現在は色々あってムズカシイ...ということもあるんだと、思い直したからです。
部分部分は統合というかスムーズに連結しているところがあっても、全部ではないことも。
自分の身近にいる人を観察していて思うところがあり、
現時点での気持ちや考え、その仕組みなどを文章に残してみました。



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