6月28日tribal beat@ヴァンダメリリー
- Keiori Takagi

- 7月4日
- 読了時間: 22分
更新日:7月8日
6月28日は、奈良市にあるヴァンダメリリーのイベント『tribal beat』の中で、私の所属するバンド『FUMIE』の3回目のLIVEがありました。
ステキなメロディーライン、どこか懐かしい音色の
オリジナル系バンド、『Fine-New』さん。
そして、演奏してくださる曲のほとんどが、
タカギも好きな曲、取り組む曲だった『スリーカード』さん。
ビートルズ後期の曲をメインに、
凝ったアレンジで聴かせてくれた『BEAT-LUZ』さん。
そして私たち『FUMIE』の順番でした。
私も含め、メンバーが遅くなる可能性があったのでこういうお時間に。
遅くまで残ってくださって、
本当にありがたいことだなぁと振り返っています。
今回のライヴを通して、これまでの私の活動について考えさせられることが整理されたことがあり、ついでにこそっと、最後のほうに文字にしていきます。
元々が、お世話になっているお店、『ヴァンダメリリー』でのクリスマス催事向けに結成されたバンドであるため、イベントで「盛り上がってまいりましょ~♪」という趣旨以上に強いこだわりやコンセプトがあったわけではないんですが、
そういったスタート地点だからか、ROCKというジャンルの中でいろんなカテゴリーを縦断するバンドに…なっています。結果的にですが(^-^;
私などは、いろんな曲を聴いて育ってきたこともあり、なんの曲に対しても、「あ✨いいですね~」と言いやすいところも、あるからかもしれません。選曲の基準があるにはあるんですが非常に曖昧だし、
そうは言っても、ROCKにも色々ありまして。どんな感じにしましょうかと、昨年の12月のイベントに向けては、ギターのヒロキ兄さんと相談して、曲を決めていきました。
今回の3回目にあたって新しく取り組んだのは2曲。
1曲はヒロキ兄さんより、
1曲はドラムのマッサさんから出てきました。
面白いことに、歌の人から感覚的に言うと
「両方ともパーカッシヴな曲だなぁ。」という事と、
「両方とも、英語ネイティヴの人でも歌うのが難しい系」、
ということです。
「Fuel」は、現地のカラオケバーなどでトライする人はいるかもしれません。が、あの野性味を出そうとして1曲歌い切る前に喉を傷め、声が枯れてしまいそう。しかも母音を横に潰してしゃくり上げて歌わないと、おシャンティで綺麗なだけ、になってしまう。
歌を立体的に組み立てていく中でいくつか分岐が発生。選曲してくれたヒロキ兄さんには、音合わせのときに「女性でありながら、Metallicaのジェイムズの歌唱を工夫して取り入れてみる方向で」と伝えました。どちらでもOKとのことで色々試させてもらいました。
音程通りにメロディ―ラインを歌っているようで、実はそこはあまり”明確ではない”。メロディーよりも、殴りつけるような打撃系のサウンドをどれくらい入れようか?に重きを置きました。そんな特徴を持っているので、
ヴァンダのまさこママのリクエストにちょこっと応えて、 曲の中でも最低音ゾーンに差し掛かる辺りで、気持ち、その場の雰囲気だったのですが、
『デスボイス』な闇も出してみました。

さすがMetallica。あえてデスボイス曲を選ばなくても、
時と場合によって即対応できるようになっているんだなぁ。
一方、「Can’t Stop」はジャンルとしてはファンク・ロック。
そう、ファンク要素があるんです。
自分にとっては黒い系のノリ、
パーカッシヴな歌唱に慣れ親しんでいるので、
そないに詳しい曲ではないけど(あー知ってる知ってる、程度)
やってみると面白いんじゃないかい?となりました。
『FUMIE』を始める前に、FUNK系SESSIONでお会いしたミュージシャンの皆さまと、地域のイベントを盛り上げるべく活動していたんですが(今はお休み期間中)、5~60代を中心にROCK好きの皆さまのために毎年1~2曲は取り組んでいました。 みんなが知ってる、昔を思い出す熱いナンバーということで、Bon JoviのLiiving On A Prayer、JourneyのDon't Stop Believin’、ツイストの銃爪など。楽曲の持つパワーがすごいので、イントロが流れるだけで会場の雰囲気が変わります。
FUNK界隈の人とFUNK系グルーヴに包まれて歌うことは、自分にとって自然な流れでしたが、もし私が、ROCKバンドで活動している人と組んでみたらどうなるんだろうと『FUMIE』を始めて、意外なところで自分の得意分野がクロスオーバーwwしました。
普段はハードロックな現場にいるヒロキ兄さんが、FUNK系グルーヴ系に前向きに挑戦してくれたことに、スタジオのときから感動しています。いい曲だけど、どうなんだろうドキドキ…と個人的に、自分からはお願いしにくいことだったのです。 (だって、そのためにFUNK系の集まりとは別に、『FUMIE』を始めた経緯があるから。今みたいに、お互いの文化を多少なりとも交換したり、すり合わせることになるとは1ミリも想像していなかったのです。だから個人的に泣けます😿) Can’t Stopは、歌というよりやってることはほぼラップですよね。しかも昔聞いてたエミネムや2PACのようにハッキリ回すのではなく、飄々と朴訥なアンソニー節は音程がないようにみえて、、、実は明確に”ある”。
私も、アンソニーに習って、「ココからココまでは跳ねよう」
「自由にメロを歌っていいんだけど、ココまでにしておこう」
などと、本当はもっと無軌道に出来るけれど、それはやらず。あえてそうしませんでした。
「原曲の歌い手のことなんて気にせず、自分の心のまま歌えばいいじゃないの?」と言われることがあります。あえて雰囲気を変えてみたり、自分らしさで表現する作品ももちろんあります。
実際、「こんな歌、ないんかい?」と自分で作ってみた『燃やしてけ!!』のように、お手本がない曲は、私が好きなように歌うしかないわなぁ。
だけど、私、元々歌い手になろうとして音楽に携わってこなかった期間が長いから?既存曲になると、私は少し順番が違うのです。 最初から「自分らしく歌いたい」は、あんまり来ない。
まず知りたいのは、「この人は、何に心を動かされて歌っているんだろう?」であったりします。
作品をよく知ることが先にあって、歌い手が何を考え、どんな美学で歌い、どんなルールを自分に課していたのか。そこへ敬意を払うことから始めたい。個人的には、それが表現者としての礼儀だと思っているフシがあって。
決して歌い方を真似するのが目的ではなく、その人が何に心を動かされ、どんな哲学をベースに歌っているのか、寄り添いたいものじゃない?って。『愛』から始まっているのかも。
『Can't Stop』なら、アンソニー・キーディスは、自由に喋っているみたいに聴こえても、実際には、違う。無秩序ではなく、跳ねる場所。抜く場所。言葉を前へ押し出すところ。
音程を感じさせないようでいて、実は正確な音程があるし。
その全てに美学を感じます。エロいくらいに。
そう思ったのなら、「自由に歌う」前に、まずその美学ごとインストールしたがるんです。さらにエロい。輪をかけてエロくないかw
「母音の置き方に特徴があるなぁ」
「音程の曖昧さの中に、正確さも両立させている」
「厳密に言うと、ラップとも違うわけだ」
そんなことを受け取りながら、何度も聴いて、何度も一緒に歌ってみる日々でした。
両方の曲がどう違うかは、さらに各曲の記事で書いたのでここではそろそろ割愛して、
パーカッシヴな歌唱というのは、
日本語スピーカーにとってはなかなか希薄な概念でしょう。
私がこの10年余りにお会いした身近な洋楽の歌い手さんについて言うなら、JAZZボーカルの方がFUNKにも興味があってFUNK SESSIONに来られることがたまにあったんですが、
「ちょっとよく分からなかった」と戻ってくることはあまりなかったです。
様々な要因があるんだろうけど、この打楽器的な歌い方を”する”か”しないか”、”楽しめるか”、”楽しめないか”で、歌える曲が限られてしまうことは事実。そうではない曲もたまにはありますが、本来のFUNK系集まりから少し離れる印象です。 伝統的な日本語の構造や日本の歌の歴史において「パーカッシヴ(打楽器のようにはじけるような音のアタックや、グルーヴを生み出すリズムの切れ味)」という概念が、もともとあまりないようだし。(あります?能、長唄、こぶしとか。伸ばす要素ならあるけれど。)
日本の伝統的な歌(民謡、演歌、あるいはそれ以前の声明や詩吟など)の歴史を振り返ると、リズムの概念が西洋やアフリカとは根本的に異なっているし、「間(ま)」と「揺らぎ」の文化や、言葉を「語る」ためのメロディライン重視。 だからJAZZでいうと、スタンダードの曲の中でも、日本のボーカルさんはバラードのほうは耳馴染みよく、それゆえにレパートリーもゆったりした曲多めかもしれません。スキャットをするならば打楽器的アプローチはコードへの理解くらい必要だろうけど、
声を打楽器にするなんて元々日本にあまり馴染みがない文化なので、ワーーーーーッと伸びやかに歌い上げたいものですよね。気持ち分かります。小刻みに細切れに歌うの、なんか”せわしない”というか、声を出し切って表現するから歌って気持ちいいんですよ。 それは科学的にも証明されていることだし、日本でカラオケが発明され、不名誉なことに「イグノーベル賞」を受賞し、世の中にカラオケボックスなどのお店が沢山ある理由でもあります。
言葉自体を「リズム楽器」として扱うという発想そのものが、もともとの文化になかったのだから、慣れないのに洋楽やジャズ、R&Bなどの「ビートがハネる、あるいは鋭く刻む音楽」を日本語で歌おうとすると、
どうしてもノリが重くなったり、ジャストのタイミングから後ろにズレて平べったくなってしまいがちなのです。
私の場合は変わり者で、英語を上手く話せるようになりたいと思ったことはなく、まあまあ楽しくコミュニケーションのキャッチボールが日本人らしく出来たらという程度。その代わり、Sarah VaughanやElla Fizgerald、アル・ジャロウのように声を器楽的に、
あるいは英語を打楽器的に鳴らすほうに興味があったもので。ラップを聞いて「上手いこと言ってるなぁ」と感動したり、流行りの映画やドラマを観て気に入ったセリフを、耳で聞いたまま何度も発音するなど、元々細切れに捉えていたように思います。 ほんとに、子どもの頃から英語の発音が趣味っぽいところがあって、音楽で、好きな洋楽を聞いたそばから出来るだけソックリに発音しようとする…などを筋トレみたいにやっていたから、日本語の縛りの外に出るのが早かったかもしれません。(だって両立しないもの。)
なので、パーカッシヴな歌唱=ほぼ筋トレです。ドラマーの皆さまと一緒。日本語の響きにない発音に対して、口腔内で下を丸めたときに出る特有の息遣いや、次の発音では上の前歯の裏に舌を付けようとするときに僅かな空気の揺れでLを聞き取るように、
例えば「Can’t stop addicted to the shindig」と歌いたいとき、ドラマーの皆さまがドラムセットの前に座って2本のスティックを使ってやっていることを、口の中でやる。強く踏み込む場所と引き算する場所の「うねり」でリズムを作っていきます。
必要なのは、子音の特にP, T, K, B, D辺りを爆発させるような「アタック感」強めの発音と、音をパッと切る「キレ」。なのに、日本語の構造はこれと真逆の、子音+母音で、母音が伸びる性質があるから、ん~なかなかに、真逆です。
言葉にするとややこしい、えぇ、もう、筋トレです。
それか、元々リズム感の捉え方がブラック寄りな人だと特に苦労しない曲、ということで。アハハまぁ、いいっか。
話をROCKに戻して💦
「ROCK」にも色々ありますね。今回のLIVEで『FUMIE』が取り組んだのは、
ヘヴィメタル / スラッシュメタル、
ファンクロック / ミクスチャー・ロック、
グランジ / オルタナティヴ・ロック、
ガレージロック / ハードロック、
グラムメタル / メロディックハードロック、
ジャパニーズロック / アニメロック、
そして、FUMIE独自領域、もありました。
歌う人も演奏するみんなも、身体の使い方も、呼吸も、重心も、まるで違います。私みたいに言語化はしないけど、1曲ずつ特徴があって、各パートごとにむずかしさがあったと思います。ゆっくりボチボチやっていければ✨を合言葉にやっているFUMIEですが、
今後は、また、どんな曲に取り組むことになるのか。。。(選曲のことはまた別途、掘り下げて言語化してみます。)
いろんなことを試させてもらえる機会を頂き、聞いてくださっていた対バン相手の皆さま、FUMIEを観に来てくれた皆さまに応援してもうて、感謝、感謝の気持ちでいっぱいの夜でした。
このライヴを終えて、あらためて頭の中でまとまってきたことを、 ①~④まで、文章にして残しました。前半の内容を別の視点から語っているようなところもありますが(^-^;脳内に溜ってきた言葉たちを一旦出さないと次に進めないような気がして。
ココまでの喋り口調からトーンを落として、ちょっと整理しながらいきます。
① FUMIEという実験
6月28日に『FUMIE』で取り組んだことは、
どこまで受け入れてもらえるのだろう?と考えていたよりも、あっさり、
あれはあれで、アリだったのかなと思い、ホッとしています。
私はこれまで、ジャズ方面では「ジャズの人」。FUNK SESSION界隈では「FUNK系の人」。
地域のイベントでは「ロックや歌謡曲も歌う人」。そんなふうに、その時々の現場によっていろんな紹介をされてきました。
今回のFUMIEのライブを振り返っていて、ジャンルは変わっても、私が曲と向き合う姿勢そのものは、昔から何も変わっていないんだなぁと、あらためて痛感しました。
FUMIEのセットリストは、メンバーそれぞれの個性がそのまま表れています。
ヒロキ兄さんが持ってきたのは、『I Love Rock'n Roll』『Fuel』のような骨太なロック。
「静」の中に熱を抱えたような世界観を持つ曲が多く、ギターが映える選曲です。
そこへ私は、『Photograph』『Tough Boy』を持ち込みました。どちらも、自分の声が最も自然に響く帯域を生かせる曲です。自分がボーカルなのだから、そういう曲になるもので。
ドラムのまっささんが提案してくれたのが、レッチリの『Can't Stop』。言葉数が多いから本当に私が歌う曲なんやろか?そんな印象でした。ところが不思議なもので、
その頃ちょうど外国人ばかりのセッションでこの曲を耳にし、さらに主人まで「FUMIEでやったら面白いんちゃう?」と同じ曲を勧めてきた記憶がシンクロ。短い期間に3度も同じ曲が目の前に現れることなんて、そうそう無い。
結局、「これは、私が歌うことになる曲なんだろう。」そう思って取り組み始めました。
今振り返ると、今回のセットリストそのものが、私にとって1つの問いだったような気がしています。
昨年末のクリスマス、そして3月末に続き、今回も、「ロックというジャンルでも、私は今までと同じように歌うのだろうか。」その答えを確認するライブでもありました。
ROCKな世界は、風通しがいいですね。ジャズやファンクのように理論や理屈が本当の意味で必要最低限。ルールよりも愛やパッション、その衝動に重きが置かれる。いろんなROCKがあるのを知っている人が多いから寛容で、正しいルールを振りかざす「警察」もいない。
1曲1曲にアドリブ的なソロは、あえて作らないと起こらないのが自然だから、アドリブソロを楽しむジャズやファンク系ミュージシャンからすると、ROCKを演奏するということは単なるカバー、コピバン、トリビュートだとレッテルは貼られるかもだけど、
いろんなROCKバンドを観る機会がありましたが、自分たちがROCKしてる瞬間、その瞬間に生きたい!という気持ちの純粋さは、ストレートでいいですね。
ROCKは反体制の音楽だから、どちらかというと警察に取り締まられる側ということもあり、例えばジャズ界隈にいる「ジャズ警察おじさん」みたいなのがダサくなっちゃうんだ。言葉にするまでもなく警察的な人が生息していない。自分にとっては居心地が良いです。 ② 私なりの”歌との向き合い方”
私は曲によって、声色も、身体の使い方も、歌への入り方もかなり大きく変えるスタイルでいます。昔は、それが自分の強みなのか、それとも一つのジャンルに絞れない弱さなのか、自分でもよく分からないまま、とにかく目の前のことを片付ける日々で。
「ジャズならジャズだけ歌えばいい。」「ロックならロックだけやればいい。」そんな言葉を耳にすることはしょっちゅうあって。そのほうが分かりやすいし、活動もしやすいでしょう。私自身も、そうしたほうがいいのかなと思った時期があります。
でも、しばらく歌って分かったのには、ジャンルを行き来すること=弱さ、という風にはなっていないなぁ。自分の場合には。ということです。
私は自分のことを、「声や表現の可変領域が広い歌の人」なのだと思うようになっていくのですが、ここで言う「可変領域」とは、単に音域が広いという意味ではないのです。
自分の声が一番自然に響く帯域はあります。だから『Photograph』や『Tough Boy』のような曲では、声が自然に前へ伸びていくでしょう。でも、それだけでは自分を定義することができなくて、
チャレンジしたいことの幅が広いのに、ぎゅぎゅつと小さいところに押し込められるように窮屈なんです。私のような、シンプルに歌モノの音楽を愛し、歌にまつわることを自分の身体を使って掘り下げ続ける人には、研究対象を絞れと言われるようなもの💦非常に困る。 『Fuel』では、声よりも身体全体を打楽器のように使う。『Can't Stop』では、歌うというよりリズムの一部になるような感覚。曲が変われば、身体の使い方、声のトーン、言葉の置き方も変わる。だからといって、モノマネをしているわけではなく、
どの曲も、自分のまま歌っていくのです。ただ、その曲が本来持っている世界に合わせて、自分の身体や声の使い方を変えている。ただ、そのことを繰り返しているだけなんです。
ボーカリストには、それぞれ持ち味があって、ハスキーだからブルース。透明感があるからバラード。器楽的だからジャズ…となる。もちろん、それは素敵なことです。私にも、一番自然に響く場所があります。でも私が一番興味を持つのは、
「私の声には何が合うか。」ではなく、「その曲が本来持っている魅力を、私だったらどんな身体と声で届けられるだろう。」という、ところなんです。だからこそ、ジャンルから歌い方を決めることがまあ、まずない。
ロックだからこう!ジャズだからこう!というより、この曲は何を求めているんだろう。
その問いに対して、出てきた答えをたよりに自分の身体や声を少しずつ調整していく。それが、昔から変わらない私の歌との向き合い方なんです。
私にとって歌の人というのは、自分を表現すること以上に、その楽曲の通訳をすることなのかもしれません。
ボーカルがどんどん前に出て、「私を見てくださいね!」という感じで歌うのではないのが、自分でも少し説明に困るところです。
私の中にあるのは、「自分を表現したい。」という気持ちよりも、「作品が生きるための器でありたい。」という感覚がまず先にあります。
私という人間はたしかに、そこにいます。が、本当に興味があるのは、私自身ではないところが、他の人と会話していても、違いとして出てきます。
その曲が、私という身体を通して、今、この時代、この場所で、どう生きたいのか。その声に耳を澄ませているだけなんですけどね。
俳優さんたちは、「この役は、今この時代、この舞台で、どう生きたいんだろう。」そんなことを考えながら、役の人生を少しずつ自分の中へ迎え入れていくのだと思います。
私の場合はその相手が「役」ではなく、「楽曲」になっている。そうなると私の歌は、「私はどう歌いたいか。」から始まることはあまりなくて。
私にとって歌うことは、自分を表現することではなく、楽曲の人生を一度、自分の身体で生きてみることなのかもしれません。 ③ 歌だけの話ではなくて
ここまで読むと、「歌の世界での取り組み方の話なんだな。」と思われるかもしれません。
でも実は、これは歌だけのことではなかったり、します。
振り返ってみると、私は昔から、一つの肩書きだけで説明されるのを苦手と思っていたかも。英語が少しくらいは得意です、などと履歴書に書かなくても、ITシステム担当です、と名乗ったことはなくても、その時が来れば、英語で困っている人がいれば通訳をし、
パソコンのトラブルが起きれば周りの皆さまと一緒に原因を探し始めるだろうし、プリンタが止まれば色々やって可能性を潰していくし、障がい者就労施設では、言葉にならない思いをくみ取りながら、その人が本当に伝えたいことを探していました。
栄養関係で知識が必要そうな人にも、相談に乗るだろうし。どれも、「それが私の担当だから」という境界線をとび越えて、その場でセッション的に自分の中の別の引き出しが開いて、「今、自分に出来ることで解決しよう」と最善を尽くしているだけなのです。
昔から、「結局、何をしている人なん?」と聞かれることも少なくないけれど、ジャズの人。FUNKの人。ロックの人。イベントの人。MCの人。占いをする人。栄養関係で働く人。その時々で、いろんな呼ばれ方をされながら、
でも自分としては、1つの肩書きになりたかったのではなく、人と人。人と音楽。人と仕事。その間に立って、何かが生まれる瞬間に立ち会うことが好きだったのだと。そう考えると、歌だけが特別だったわけではありません。
昔から、その場で必要とされる役割を選びながら生きてきました。だからFUMIEでも、ジャズでも、FUNKでも、やっていることは全く同じ。私が前へ出たいというより、その場が、その曲が、そこにいる人が、関わっている人が1番その人らしく居られるように。
そのために、自分の持てる引き出しから、何をどう調整していこうか。それを考え続けているだけのことで。いろんな側面を持つ私が、1つのジャンルではなく、1つの姿勢で歌っているのだと思います。
ただ、これは、周りの人にあんまり伝わらないやつです。そんな歌の人、自分以外にまず会わないし、何してんだろうなぁあの人は…って訝しがられるだけでwそもそも今までにおらんタイプなんやったらどう扱ったらいいかも分からないだろうし。
それも、私という人間の昔からの立ち位置なので慣れています。前例があるようで厳密にはないのだから、自分の出来ることをやるしかない。そして振り返れば、なるほど!と気づいてくれる人が増えて、そして今に至ります。
ジャズの人はジャズの私を見るだろうし。FUNK界隈の人はFUNKの物差しで計る。そしてROCKの現場へ行けば、「ロックを歌う人」として見られます。それぞれの現場では、その姿しか見えないのが自然なこと。
でも私の中では、全部一本につながっています。歌い方も、身体の使い方も変わる。求められる技術も変わる。それでも、楽曲の声にただただ耳を澄ませて解決していく。という姿勢だけは、一度も変わったことがありません。
ありがたいことに、MCでは毎回、「私は生粋のロッカーではありません。」というようなことを最初の方でお伝えするのですが、それでも、曲に対して真剣に、誠意をもって向き合っていることは、少しずつ伝わっているのかもしれません。
あるいは、FUMIEの演奏陣が持っているロック魂が、私を自然とその世界へ連れて行ってくれているのかもしれません。メンバーの組み合わせそのものを面白がってくださっている部分もあるでしょう。理由は一つではないと思います。
でも、ライブを重ねるたびに、今までご縁のなかった方から良かったよと声を掛けていただいたり、「今度はうちのイベントにも来てください。」と、新しいご縁をいただくことが増えてきました。もちろん、私はまだまだ出来ていないことばかりです。
もっと表現できることがある。もっと深く入り込める。そんな反省ばかりしています。FUMIEのメンバーの皆さまも、自分の演奏にすぐOKを出すような人がいなくて。
どんどん活躍の場が広がっても、いたずらにライブ本数だけがあるというのは消耗するので、伝えたいことや情熱あっての音楽ですから、ボチボチ、焦らずやっていければと思っています。
正直ベース、今みたいにいろんなジャンルにおいて、その界隈特有の空気感を行き来しながらも、この歳になって自分では体感したことがなかった経験をすることが出来て、少しずつ新しい景色を見せてもらえることを、素直に嬉しく思っています。
でも自分の中では、ロックの現場からいろんなところに声を掛けていただけるようになったことも、新しいステージが少しずつ用意されるようになってきたことも、突然起きた出来事ではないのかもしれません。なんとなく分かっていたけれど機会を伺っていたというか。
ようやく、長い時間をかけて積み重ねてきたものが、1本の線として、少しずつ見え始めた。そんな感覚です。きっと、この文章だけでは伝わりきらないでしょう。でも、いつか、「なるほど、そういうことだったのか。」そう思ってもらえる日が来る、それで十分です。
④ 全てのセットリストで、『FUMIE』に。
昔から私は、1曲だけで判断してほしくはなかったのです。「この人はジャズの人。」「FUNK SESSIONで会ったから、FUNKの人よね。」「ロックも歌う人。」そんなふうに、一つのジャンルや一曲だけを切り取ると、どうしても違って見えてしまうからです。
FUMIEのセトリは、ロックの名曲を並べただけではないんです。
『Fuel』では、身体そのものを打楽器のように使い、『Can't Stop』では、言葉そのものをグルーヴの一部として扱い、『Photograph』では、自分の声がもっとも自然に響く帯域を生かし、『Tough Boy』では、最後まで地声のエネルギーを保ちながら走り抜ける。
一曲ごとに、身体も、声も、呼吸も、少しずつ変わっています。だから私にとっては、全部を歌って、ようやく一人のボーカリストになる。そんな感覚なんです。
1~2曲だけでは、まだ途中。全て終わって初めて、「ああ、このバンドにはこういう歌い方をする人がいるんだな。」そう見えてくる作品にしたかった。
だからFUMIEは、ロックバンドをやってみた、という単純な話ではなくなっていて、歌の私にとっては、ロックという現場でも、自分の歌の哲学は変わらない。そのことを、自分自身でも確認できたライブでした。
そして、これからもきっと、ジャズでも、ファンクでも、ロックでも、ラテンでも、私は同じ問いを持ち続け、認識を深めていくはずです。「この曲は、私という身体を借りて、今、この時代、この場所で、どう生きたいのか。」1曲1曲、自分なりに意図を汲みながら。
また次の課題に向き合っていこうと思います。だから、もしまたFUMIEをご覧いただける機会があれば、1曲ではなく、最後の一曲まで付き合っていただけたら嬉しいです。全部終わったときに、ようやくこのバンドがやりたかったことが見えてくるものかも、しれません。


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